岩井商店・岩井産業

輸入品の国産化をめざして生産事業を展開

岩井商店は、岩井勝次郎の義父である岩井文助が文久2(1862)年に大阪に雑貨舶来商を開始したことに遡る。岩井勝次郎は丁稚として入店し、神戸の居留地に通いながら西洋の文化に接することになる。明治29(1896)年に岩井勝次郎は独立し、岩井商店を設立。居留地における外国商館との不平等な取引慣習に常々不満をもち、大阪で初めて海外の商社と直接取引を開始。また、それまで外国商館との取引は洋銀前払い決済が主流であったが、勝次郎は当時横浜正金銀行副頭取であった高橋是清に頼みこみ、個人商店として初めてトラスト・レシート(信用状)による輸入貨物の引取りを行った。岩井勝次郎は、主に鉄鋼製品の輸入を開始し、八幡製鉄所が稼働すると同社の引き受け問屋となった。

岩井勝次郎は、生産事業分野に進出。第一次世界大戦が勃発すると海外からの輸入が途絶えたことを機に、輸入品の国産化構想を進める。岩井勝次郎が創設した会社は、現在のトーア紡コーポレーション、日新製鋼、ダイセル、トクヤマ、関西ペイント、日本橋梁等であり、これらの会社は岩井勝次郎ゆかりの親睦組織「最勝会」として現在においても交流が続けられている。

岩井勝次郎は、第一次世界大戦後の反動不況を予測して訓示を発し、社員に対して「投機の禁止」「人・資本・経営のバランス」「狭き深きを主眼とすること」などを戒め、堅実な経営を行った。勝次郎はまた禅を嗜み、経営に禅の精神を取り入れ自ら律することで、反動不況やその後の恐慌を乗り越えることができたともいわれる。勝次郎は晩年、京都長岡京に禅道場である長岡禅塾を設立した。

岩井商店は戦時中に岩井産業に商号変更し、戦後には岩井雄二郎が貿易庁の顧問に就任した。日本が高度経済成長期に突入する昭和30(1955)年には、ブラジル・リオドセ社(現・VALE)の鉄鉱石の輸入を開始。昭和37(1962)年には15年間の対日輸出契約を締結し、まさに高度経済成長期に必要な“産業の米”とよばれる鉄の供給に貢献した。一方、ブラジルの鉄鉱石は、現在においても同国最大の輸出産品となっており、その礎作りに貢献したともいえる。

岩井産業は、昭和43(1968)年に日商と合併し、日商岩井として新たな出発を切ることになる。

岩井勝次郎胸像(株式会社トクヤマ徳山工場)
坐禅を組む岩井勝次郎
関西ペイント神崎工場

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