岩井文助商店の設立
ペリー来航3年前に、舶来雑貨商に丁稚奉公へ
ペリーが来航する3年前の嘉永3(1850)年、岩井文助は9歳の時に丹波から大阪の加賀屋井田徳兵衛方へ丁稚奉公に出る。この加賀屋は、長崎から輸入された舶来雑貨を扱う唐物問屋であった。そして文久2(1862)年に、文助は加賀屋から暖簾分けを受け、西洋雑貨商としての第一歩を踏み出した。
当初は、「加賀文」と名乗り、舶来の硝子、毛糸、石油、洋酒、マッチ、薬品などを取り扱い、その後、急成長を遂げ、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)が創立される明治11(1878)年頃には、大阪の有力舶来物品商の一人として数えられた。また岩井文助、伊藤忠兵衛(伊藤忠・丸紅創業者)そして黒川幸七(あかつき証券創業者)の3人は、「中船場の三傑」と呼ばれた。
明治8(1875)年に、従弟の蔭山勝次郎が入店し、勝次郎は文助の厳しい指導を受けながら頭角を現すようになる。勝次郎は、店主である文助の長女栄子と結婚し、岩井勝次郎と改姓する。なお、この結婚の媒酌人は「マッチ王」とよばれた滝川弁三であった。
明治29(1896)年、岩井勝次郎は加賀屋岩井文助商店の商権を継承して、新たに岩井商店を設立し、独り立ちして新たな道を歩み始める。