昭和金融恐慌、世界大恐慌へ

鈴木商店が破綻 岩井・日本綿花も苦境に

第一次世界大戦が終結すると、反動不況が日本を襲い、その後もワシントン海軍軍縮条約による重工業の不振、そして関東大震災が発生するなど事業環境の悪化が続いた。昭和金融恐慌のさなか、鈴木商店は破綻。岩井商店、日本綿花も、これらの不況に悩まされ、その後の世界大恐慌のあおりも受けることになる。

鈴木商店は事業の急拡大により、国営銀行であった台湾銀行からの借り入れが急増し、同行の鈴木商店への過度な融資が政治問題化。そして昭和金融恐慌をきっかけに昭和2(1927)年、遂に破綻。その後、高畑誠一ら鈴木商店残党組39名が再起をかけて日商を設立し再出発した。

岩井商店の岩井勝次郎は、大戦終了による長期の不況を予測して社員たちに訓示を発し、「投機の禁止」「狭き深きを主眼とすること」など社員を戒めした。そして大正9(1920)年から昭和7(1932)年まで25期連続無配当を記録したものの、勝次郎の経営哲学によりこの難局を乗り切ることができた。勝次郎は禅の精神を経営にも取り入れ、京都長岡京に禅道場である「長岡禅塾」を設立している。

日本綿花は、中国進出を積極化し、ビルマ(現・ミャンマー)にて精米所を買収するなど商品の多角化を進めた。昭和恐慌、世界大恐慌などの苦境を機に、喜多社長は「鈴木商店の轍を踏むことは避けなければならない」とリストラを断行し、この難局を乗り切る。そしてその後、地域・商品両面において更なる多角化をすすめ経営基盤の強化に努めた。

太平洋戦争が勃発し、戦時統制がより厳しくなった昭和18(1943)年には、軍部の指導により、岩井商店は岩井産業に、日商は日商産業に、日本綿花は日綿實業に商号変更を行った。

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