【鈴木商店】鈴木商店破綻後の行方
日商の設立。金子直吉お家再興の夢をかけて
鈴木商店破綻後、高畑誠一、永井幸太郎ら鈴木商店残党組約40人が、鈴木商店の貿易部門を引き継ぎ、昭和3(1928)年に日商(現・双日)を設立。台湾銀行をはじめとした金融機関の支援を受け、鈴木商店残党組自らも出資し、鈴木の債務の一部を背負いながらスタートした。
鈴木商店の事業会社は台湾銀行管理下に置かれ、神戸製鋼所、帝人のように自主再建し独立していく企業、他の財閥に譲渡される企業、そして整理される企業に分かれた。
一方で、鈴木家と金子直吉は、日商に合流することは許されず、太陽曹達(後の太陽産業、太陽鉱工)を軸にお家再興を図ることになる。金子直吉は、マレーシアにおけるボーキサイト事業、豪州における鉄鉱石事業に、ボルネオにおけるセメント、アルミナ事業などの夢を追った。その中でも、金子直吉がお家再興の最有力事業として位置付けたのが北海道の羽幌炭鉱である。鈴木商店時代に取得した鉱区を買戻し、昭和15(1940)年に開鉱する。この羽幌炭鉱は、戦後年100万トンを出炭し、昭和45(1970)年に閉山になるまで高度経済成長に必要なエネルギー源を供給した。羽幌町には、辰巳橋、金子町などがあり、鈴木商店ゆかりの名が多く付けられた。
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