開国、創業へ

大阪・神戸を拠点とする3つの源流

嘉永6(1853)年のペリー来航により日本は開国し、貿易が再開された。貿易港に指定された神戸は、主に輸入港として栄え、そこで双日の先人たちは、海外の先進的な技術と商品にふれることになる。そして200年以上にもわたる鎖国により世界の産業革命から完全に取り残された日本の姿を目の当たりにする。外国人居留地に出入りしていた岩井商店の岩井勝次郎と鈴木商店の金子直吉らは、産業を興して日本の地位を向上させることを使命と感じるようになる。また外国商社に頼らずに原料を独自調達しようという志が日本綿花の設立につながっていく。

岩井文助商店(屋号:加賀屋文助)は、文久2(1862)年に大阪に舶来雑貨商として創業。その後、明治29(1896)年に岩井勝次郎が独立して岩井商店を設立。勝次郎は、神戸の外国人居留地に通い、個人商店として初めてトラストレシート(信用状)による直貿易を実現させ、主に欧米からの鉄鋼製品の輸入を手掛けた。

鈴木商店は、明治7(1874)年に鈴木岩治郎が洋糖引取商として創業。神戸八大貿易商の一つに数えられるほど成長するも、店主岩治郎が急死。その後、夫人の鈴木よねが番頭の柳田富士松と金子直吉に経営を一任し店を継続。金子直吉は台湾総督府民政長官であった後藤新平との知遇を得て、台湾産樟脳油の販売権を取得し、急成長していく。

日本綿花は、明治25(1892)年に紡績会社の首脳陣や大阪の商人ら25人が発起人となり、綿花を独自調達することを目的に設立された。日本の紡績業は明治15(1882)年に、渋沢栄一が主唱して大阪紡績が設立されたのを機に20以上の紡績会社が次々と設立され、大阪は“東洋のマンチェスター”と呼ばれた。綿花の輸入は急増するものの、原料は外国商社に依存していたため、日本人の手による綿花を調達することが国家的使命として求められていた時期でもあった。

岩井文助 / 岩井勝次郎
鈴木岩治郎/鈴木よね/金子直吉
日本綿花初代社長 佐野常樹

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