日商

鈴木商店の残党組らにより僅か39名で再スタート

昭和2(1927)年の鈴木商店の破綻後、旧鈴木商店の若手幹部であった高畑誠一と永井幸太郎は、鈴木商店の残党組らを伴って僅か39名で「日商」を設立。資本金は鈴木商店時代の80分の1という規模であった。日商創業時の出資者の中には、“損保業界の父”とよばれ財界の大御所であった各務謙吉も含まれ、「日本の貿易は三井と鈴木の二本柱で発展してきた。日本の繁栄のためには貿易が必要。貿易の知識を持っている人たちが散らばるのは残念だし、日本の損失だ」と出資を快諾した。一方の金子直吉、鈴木家は、「日商」に加わることは銀行団からは許されず、太陽曹達(現・太陽鉱工)を軸にお家再興を図ることになる。

日商は、インド・タタ財閥の銑鉄、アメリカの石油輸入ビジネスを主軸として主にリスクの低い物流ビジネスから出発、初年度から黒字を確保した。日商が軌道に乗り始めると太陽曹達及び鈴木家が一時筆頭株主となり、日商は神戸製鋼所や帝人など旧鈴木商店系企業との関係を深めていく。そして再び鈴木商店のように生産事業にも進出。その代表例が日本発条の設立であり、同社は後に世界一のばね専門メーカーに成長する。

戦後、社長の永井幸太郎は持論のエネルギー政策が吉田茂の共感を呼び、貿易庁長官に招聘され、政府の立場から戦後復興に貢献していく。日商は、戦後民間企業として初めて米国・ニューヨークに事務所を開設、昭和26(1951)年に民間貿易再開後初となる船舶輸出を行い、以後日商は船舶と舶用機器の輸出では常にトップシェアを誇るようになる。昭和29(1954)年に、トルコ向けに戦後最大のプラント輸出となる綿紡機を成約、昭和31(1956)年にはアルゼンチン向けに日本初の鉄道輸出を成約し、輸出による外貨獲得により日本の復興を貢献していく。昭和31(1956)年には、米・ボーイング社の対日代理権を取得し、またマクダネル・ダグラス社とも提携し、以後、航空機ビジネスを積極展開していく。

エネルギー分野においては、旧鈴木商店ゆかりの企業等によびかけFAPIG(第一原子力産業グループ)を結成、FAPIG各社は日本で初めて建設した茨城県東海村の原子力発電所を受注する。また石炭斜陽化の流れを受けて、LPG取引に進出し全国に物流網を構築した。

鉄鋼分野ではインド・タタ財閥の銑鉄の輸入をいち早く再開。また神戸製鋼所の線材輸出を手掛け、国内では鉄鋼加工センター網を整備した。非鉄分野では戦後初めてニューカレドニアからのニッケル鉱石の輸入を行うなど、金属部門の取扱高は岩井産業との合併前には42%のシェアを占めていた。

そして昭和43(1968)年に、同じく金属部門に強みのある岩井産業と合併することになる。

高畑誠一胸像
創業時及び戦後の日商を支えたインドタタ製鉄Jamshedpur工場正門
日商が受注したパナマ向け油槽船

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