日本綿花

綿花の直輸入会社として日本紡績業の発展を牽引

日本の近代紡績の誕生は、明治15(1882)年に渋沢栄一の主唱にて設立された大阪紡績(現・東洋紡)が始まりで、その後20社以上もの紡績会社が次々と設立され、大阪は“東洋のマンチェスター”と呼ばれるようになった。一方で原料である綿花の供給は、一部の外国商社と結託した商社に頼っていたため、紡績会社の首脳陣を中心とした25人の発起人が明治25(1892)年に日本綿花株式会社を設立する。大正元年時点で全産業に占める紡績業の割合は5割に達し、日本綿花は原料を調達することで日本の産業に大きく貢献することになる。

日本綿花設立後、直ぐにインド、エジプト、中国からの綿花の輸入を開始。明治29(1896)年にはわが国初の米国綿輸入を手掛け、米国では日綿社員が日本人として初めてニューヨーク綿花取引所の会員として入会。中国では明治36(1903)年に上海支店を設立し、中国綿の取り扱いもトップとなった。大正6(1917)年には、日本初のビルマ綿の輸入を開始し、精米工場を買収するなど、戦後も含めビルマは日綿にとって強い地域となった。また東アフリカにおいて日本企業初の綿花の試験栽培を実施し、これが日本の東アフリカ投資の第一号といわれている。第一次世界大戦が勃発すると豪州産羊毛の輸入が途絶えたことにより、アルゼンチン、ウルグアイ産の羊毛の輸入を開始した。

日本の紡績業は製品である綿糸、綿布の輸出を拡大し、大戦時には世界最大の生産国であった英国からの供給が途絶えたこともあり、日本の製品輸出は急拡大し、膨大な外貨をもたらした。日本綿花の喜多又蔵社長は、日本の紡績業および日本の工業発展への貢献が認められ、大正8(1919)年に開催されたパリ講和会議の4人の民間随行員の一人として選ばれている。欧州から帰国した喜多は、人造絹糸の将来性を見出し、日窒コンツェルンの野口遵と共に旭絹織(現・旭化成)を設立し、化学分野にも進出していく。

ビルマに繰り綿工場での選綿作業
中国漢口の泰安紡績 
東アフリカにおける綿花の買い付け

関連トピックス