円高、バブル経済の発生と崩壊

海外での事業展開を積極推進

1980年代の日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ、モノづくり大国として、「メイド・イン・ジャパン」を刻んだ商品は世界各国に輸出された。昭和60(1985)年のプラザ合意によってもたらされた円高時代の到来は、日本の海外進出を後押しし、総合商社の活動範囲も広がることになった。日銀の金融緩和によって発生したバブルも90年代になると崩壊し、これまで資産を膨らませてきた総合商社にとっては厳しい時代となる。

日綿實業は、マレーシアにおいては肥料プラント、通信プロジェクト、住宅建設を、中東においてはセメント、アルミ圧延設備、淡水化プラントを、インドネシアにおいては製紙プラント・石油化学関連プロジェクトなどを連続受注した。また途上国の工業化を支援するため、タイ、インドネシアではエンジンや自動車の現地生産プロジェクトに参画した。航空機分野でもエアバス機の納入に成功するなど、繊維以外の事業の多角化を進め、昭和57(1982)年には社名を日綿實業からニチメンに変更した。

共産国地域においては、ソ連原油、石油製品などの買い付けで日本商社中第一位となり、中国ではベアリング関連事業の積極化を図って合弁会社を設立。また1990年代には、米国においてメトン樹脂、二軸延伸ナイロンフィルム製造・販売事業など合成樹脂分野の強化を推し進めた。

日商岩井は、戦後初の鉄道輸出を手掛け、同分野では常にリードしてきた。昭和57(1982)年には米国・ニューヨークの地下鉄車両325両を契約し、その後、アメリカの鉄道車両を連続受注。一部の車両は現在もニューヨーク市民の足として活用されている。1980年代になると情報通信分野にもいち早く注力し、昭和61(1986)年にはパソコン通信会社であるエヌ・アイ・エフ(現・NIFTY)を設立した。

ベトナム戦争後の昭和61(1986)年には、日本企業として初めてベトナムの駐在員事務所をハノイに設立。その後、ベトナム初の原油輸出や植林を手掛け、肥料事業の合弁を設立した。また工業団地を開発して日本企業を誘致、電力BOTプロジェクトにも参画し、同国の工業化を支援した。インドネシアにおいてはアジア通貨危機等の影響を受けるも石油化学プロジェクトを推進し、その一部は現在の双日のメタノール事業につながっている。

  • 肥料プラントを受注

  • ニューヨークの地下鉄車両を大量受注

  • 中国でベアリング事業の合弁会社(紹興旭日綿軸承有限公司)を設立