ペリー来航時、近代的産業とよべるものはほとんどなかった日本。その後、日本は貿易黒字国、債権国に転じ、名実ともに先進国の仲間入りを果たしていく。
双日の源流となる鈴木商店、岩井商店、日本綿花の3社は、日本最大級の規模で明治・大正の産業革命を牽引し、あふれる起業家精神と発想実現力で多彩な事業を展開していく。
そのDNAを受け継ぐ双日とは何者なのか。これはその本質を探る物語である。
本作品は、関係する企業や団体の史料を基に当社独自の視線で描いた歴史物語です。
可能な限り史実に基づいて作成していますが、構成上、マンガ特有の表現、描写を用いている部分があります。
また、登場人物の台詞は、基本的に各史料から引用していますが、一部推測により作成しています。
第1章
鈴木商店の大番頭・金子直吉、岩井商店の初代社長・岩井勝次郎。二人が通ったのは、神戸の外国人居留地。そこで二人は日本の地位の低さを痛感し、産業を興して一流国にならなければ、日本はいつまでたっても馬鹿にされ続けると屈辱をバネに変えていく。
金子直吉は外国人相手に樟脳の先物取引に失敗し、鈴木商店を破綻に追い込むも、女主人である鈴木よねに救われ、鈴木家のため、日本のためと志を高めていく。
岩井勝次郎は日本の個人商店として初めて居留地の外国商館を通さず、海外の商社と直接取引を開始するようになる。
一方で、外国商館ではセルロイド、人造絹糸など海外の先進的な商品を日本人としていち早く知ることになる。そして、次第に単なる海外からの輸入ではなく、日本人によるモノづくりに強い使命感を抱いていく。
第2章
明治維新により政治経済の中心は関西から東京に。大阪の商人たちは危機感を強め、大阪経済の父とよばれた五代友厚の下で協力し合う。三井、鴻池に並ぶ大阪の豪商・加島屋の廣岡信五郎は、妻・浅子と相談し、大阪商人らと共同で尼崎紡績(現・ユニチカ)を設立して社長に就任。しかし、巨大な西洋式の紡績機械に適した原料である綿花が不足しているため、紡績業界の首脳たちが財界の重鎮である渋沢栄一を動かして農商務大臣・大隈重信に働きかけ、佐野常樹をトップに調査団をインドに派遣。ただし、原料となるインド綿は外国商館に牛耳られていることもあり、廣岡信五郎を含む紡績会社首脳と大阪商人らは共同で日本人による綿花調達会社となる日本綿花(後のニチメン)を明治25(1892)年に設立する。
第3章
日清戦争により台湾が日本の統治下になると鈴木商店は台湾に進出。主な狙いはクスノキ(楠)から採れる樟脳。当時、爆薬原料や世界初のプラスチックとして開発されたセルロイドの可塑剤としての需要が高まっていた。鈴木商店は台湾総督府民生長官の後藤新平から樟脳油の販売権を得て、明治34(1901)年、鈴木商店初の製造事業となる樟脳工場を神戸で設立(現・日本精化)。また、同時期に薄荷(ハッカ)が日本に偏在することを知り、神戸で薄荷の製造工場(現・鈴木薄荷)を設立。樟脳と薄荷は神戸の代表的な輸出品として成長していく。
一方、セルロイド生地の輸入大手だった岩井商店も、台湾の樟脳に着目。国産原料であるセルロイド生産を画策し、明治41(1908)年、兵庫県網干に日本セルロイド人造絹糸(現・ダイセル)を設立して、外国人技師を招いてセルロイド生産を開始。しかし、生産は上手くいかず、岩井勝次郎は日本人主導の生産に切り替え、再建に尽力。そしてセルロイドは日本の代表的な輸出品として成長していく。
第1章
日本綿花の設立後、初代社長の佐野常樹は、インド産綿花の調達を試みようとするも、輸送面で外国船籍に依存しなければならない。その現状を打破するため、渋沢栄一、インドのタタを動かし、日本郵船による神戸とボンベイを結ぶ日印定期航路の開通を実現させる。
2代社長の田中市兵衛は、入社したばかりの喜多又蔵をインドに派遣し、インド綿輸入トップ商社の地位を確たるものとする。喜多は中国を視察し、上海支店設立を重役に提言。さらに喜多のリーダーシップにより世界最大の米国綿調達でも先鞭をつけた。
第2章
鈴木商店は創業以来、輸入品の砂糖を扱い、国内では日本精糖から調達していた。しかし、日本精糖の傲慢な態度に対して外国商館以上に憤慨し、自ら砂糖を製造することを決意。北九州の大里に大里製糖所を設立した。ここで金子直吉に惚れ込み、志を一にする職工が現れる。
大里製糖が軌道に乗るとたちまち日本精糖のシェアを圧倒し、驚いた日本精糖は大里製糖の買収を申し入れ、鈴木商店は巨額の売却益と販売権を手に入れることになる。その後、日本精糖が経営危機に陥ると、渋沢栄一は、金子直吉に救済と社長就任を申し入れるも、なんと金子直吉は拒否する。
第3章
岩井商店の岩井勝次郎は、欧米諸国の外遊中に鉄と洋服に憧れを持つようになり、輸入毛糸からメリヤス製品の製造(現・トーア紡コーポレーション)に乗り出す。また、官営八幡製鉄所が稼働すると、岩井商店は、大阪の亜鉛鍍製造(後の日新製鋼、現・日本製鉄)の経営に参画し、岩井勝次郎自ら社長に就任する。
鈴木商店の金子直吉も神戸製鋼所を設立。田宮嘉右衛門を支配人に抜擢するも、赤字続きに悩まされるが、金子直吉は土佐・薩摩人脈を駆使し、呉海軍工廠への納入を成功させ、躍進のきっかけを掴む。
第4章
北九州の大里製糖所で成功をおさめた鈴木商店は、食の西洋化を見越し、同じ大里地区に大里製粉所(後に現・ニップンに合併)を設立し、優秀な製粉技術者を招く。また、九州初のビール工場となる帝国麦酒(現・サッポロビール)を設立し、さらに焼酎とアルコールを製造する大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー門司工場)を設立する。
その後、塩、煙草、生命保険など次々と事業を拡大。ついに鈴木商店は自社船舶を保有し、世界の7つの海を股にかけることになる。
その頃、米沢では秦逸三と久村が人造絹糸の研究と開発に没頭し、ようやくサンプル品が完成。しかし、金子直吉を交えた執念の人造絹糸の事業化まではまだまだ長い道のりが続くのであった。
そして、時は大正期を迎える。
第1章
世界一周視察を終えた日本綿花の喜多又蔵は、綿糸だけでなく綿布の輸出を拡大するよう指示。大戦勃発により、一時的な市況の暴落、紡績業界の操業短縮にも動じず、逆に欧州からの製品輸出は細り、日本に大量の注文が入ると予想し、見事に的中させ、日本の紡績業界の飛躍のきっかけを掴む。
大戦により豪州からの羊毛輸入が禁止になると、地球の裏側のアルゼンチン、ウルグアイに駐在員の派遣を指示。当時、南米東海岸ではドイツ船が連合国の汽船を脅かしていたことから、日本綿花社員は、チリからアンデス山脈を越えて現地入りし、一早く羊毛の調達に成功した。そして大戦の長期化を見越し、喜多又蔵は、インドの東、そして西、すなわちビルマ、アフリカに目を向けるよう指示し、社員を鼓舞した。
第2章
岩井商店の岩井勝次郎も、大戦が勃発し、兵庫県網干のセルロイド工場が軍事転用されると、セルロイドの将来性に期待し、岩井商店単独で新たなセルロイド工場を設立することを決意。尼崎の神崎に大阪繊維工業(現・ダイセル神崎工場)を設立した。また大戦による欧州から亜鉛鉄板の輸入が滞ると、山口県の徳山に新たな工場(後・日新製鋼、現・日本製鉄)を設立するなど、輸入品の国産化を推し進める。
第3章
鈴木商店は、世界中に優秀な若手社員を派遣し、鈴木商店独自の通信網を構築していた。大戦が勃発すると、日々世界中から届けられる電報を見た金子直吉は、世界情勢と実需を見極め、「BUY ANY STEEL, ANY QUANTITY, AT ANY PRICE」(鉄と名のつくものは何でも金にいとめをつけずいくらでも買いまくれ)と大号令を発する。そして調達した鉄材で船舶を発注し、自ら造船業へ進出を画策するため川崎造船社長の松方幸次郎に相談する。
そして兵庫県相生に播磨造船所(現・IHI)を設立し、真珠王といわれた御木本幸吉の要請を受け、鳥羽造船所(現・シンフォニアテクノロジー)を買収する。建造した船舶は鈴木傘下の帝国汽船の船団に組み入れられ世界中を駆け巡ることになる。
第4章
金子直吉は、神戸外国人居留地でなぜ魚油を大量に欲しがるのか不思議がり、東京帝国大卒の新入社員であった久保田四郎に調べさせたところ、西洋では水素を添加して蝋燭、石鹸、グリセリン、オレイン酸などを製造し大儲けをしていることが分かり悔しがる。金子直吉は、久保田に国産化に向けた研究を指示し、多額の資金を投下して、神戸の苅藻島に鈴木商店製油所兵庫工場(現・日油)を建設する。そしてついて日本初の硬化油の量産化に成功することになる。
また、金子直吉は、冒険家の依岡省三と出会い、サラワク(現・マレーシア)でゴムの栽培事業に進出、神戸の敏馬にゴムの製造工場(現・ニチリン)も設立する。