現・ダイセルの設立

化学工業への進出、セルロイドの国産化

岩井商店は明治末からセルロイド(プラスチックの一種)の輸入を始め、東京市場では岩井の取扱高が大半を占めていた。そしてセルロイドの国産化を計画し、明治41(1908)年に鈴木商店、三菱とともに兵庫県の網干に日本セルロイド人造絹糸を設立し、岩井勝次郎が取締役に就任する。

 

当初外国人技師を5名を雇い入れるも、品質不良が続き、創業早々から財政難に見舞われ、大正元(1912)年には経営陣が一新された。経営管理面の強化は岩井商店が担い、工場長には岩井商店の西宗茂二を起用した。岩井勝次郎は、「狭い日本国内だけを相手にしていたので大きな発展は望めない。たとえどんな困難があろうとも会社は輸出に重点を置くことが大切だ」と西宗に説いた。その後、昭和12~13年(1937~1938年)ごろには、全世界のセルロイド生産額の40%余を製造し、各国へ輸出されるまでになった。

 

第一次大戦後、火薬の注文が殺到したため、網干工場はセルロイドの製造をやめ、火薬の製造に転換された。岩井勝次郎はセルロイドの将来性にかけ、独自のセルロイド工場を兵庫県尼崎に設立することを決意。大正5(1916)年に大阪繊維工業を設立する。

 

岩井勝次郎が設立に関与した網干・尼崎のセルロイド工場は、大正8(1919)年に大日本セルロイドに合流し、現在のダイセルに至っている。また昭和7(1932)年には、同社からは富士写真フィルム(現・富士フイルム)が誕生している。

 

現在のダイセル網干工場には、同社創業90周年を記念して設立されたモニュメントがあり、そこには、「明治41(1908)年、この網干の地に、三菱・岩井商店・鈴木商店の出資により、日本セルロイド人造絹糸株式会社が設立された。我が国セルロイド、ひいては化学工業の本格的工業化時代のさきがけをなすものであり、当時は、当社並びに日本のものづくりの原点ともいえる場所である。」と、岩井勝次郎が力を注いだセルロイド事業が日本の産業革命に大きな役割を果たしたことが記載されている。

 

[外部サイト]

  • 日本セルロイド人造絹糸網干工場(創業時)

  • 大阪繊維工業神崎工場

  • 創業の精神に誓う(ダイセル網干工場内)