長岡禅塾の設立
禅を通じた人材育成および育英事業をめざして
岩井勝次郎は、住友の別子銅山における大紛争を解決した伊庭貞剛のずば抜けた器量の大きさにかねてから強く魅かれていたが、その伊庭の人格形成の根底に禅があることを知った。そして勝次郎が文助から独立した頃、伊庭から寒山寺の松井全方和尚を紹介され、禅を始めることになった。
企業家としての勝次郎の、精神的な支柱となったのが禅であったとされる。岩井勝次郎の生活には、仕事と座禅以外にはなく、自宅にも座禅のための一室を設け、暇さえされば坐禅に没入、出張中も旅館の客室で行うなど、一日に3時間は坐禅をしていた。
第一次世界大戦中、にわか成金たちの醜態に勝次郎は嘆き、御影の深田池畔にある別荘を改築して、人間形成の場として禅道場「伝芳庵」の建築に着手し、大正8年に落成させる。この伝芳庵は、昭和15(1940)年頃に神戸高商の後身である神戸商業大学に寄付された。
その後、反動恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌、世界恐慌などが続き、人心の荒廃は我が国の将来に暗い影を投げかけていた。このような情勢を背景に勝次郎は大規模で本格的な禅道場を創設しようと考える。
そして京都・長岡天満宮の西隣に3千坪の敷地を買入れ、昭和10(1935)年に地鎮祭を行った。設立趣旨の中で、岩井勝次郎は、「世状の推移に鑑み、時勢の趨向を惟みるに、当今、我国民教導の緊要は精神振興にありと痛感す。(略)其の教導の道、多々あらんも、余は之を大乗禅によって究明、体得するを以て最上なりと信ず。」と述べている。しかし、岩井勝次郎はこの道場の開塾を待たず他界してしまう。
この道場は、昭和14(1939)年に長岡禅塾として開塾し、現在においても最勝会(岩井系グループを中心とした親睦会組織)によって支えられ、大学生や一般の人々も利用できる禅塾として親しまれている。
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