日本綿花

喜多又蔵、講和使節随員に

42歳の若さで財界を代表して参加

大正8(1919)年、第一次世界大戦終結のためにパリで講和会議が開かれ、日本からは西園寺公望全権が参加した。この講和使節には実業界からの4名の代表が随行し、近藤廉平日本郵船社長らとともに日本綿花社長の喜多又蔵が関西実業界代表として選ばれた。当時、喜多は42歳の若さであった。

第一次世界大戦中、戦火の影響を直接受けなかった日本は綿布の輸出を急増し、一方英国をはじめとする交戦国が綿業をしだいに軍需産業に転換したことから、アジアへの綿布輸出は日本の独壇場となり、インド、イラン、アフリカ地域への新市場を次々と開拓。大戦後には、それまで世界綿製品市場の王座に君臨していた英国綿布を日本が制圧するまでに発展した。

喜多又蔵が社長に就任したのは、大戦中の大正6(1917)年 。この年は日本綿花創立25周年であたり、喜多は10割配当を決断。関西の財界は、日本綿花の若手経営者に対して高い評価を与えた。

第7代社長喜多又蔵
喜多又蔵の講和使節随員選任を報じる新聞(大阪毎日新聞社)
講和特使の出発を伝える当時の新聞