非繊維比率50%超、総合商社化を加速

機械、石油化学、鉄鋼、ガソリンスタンド、食品、飼料・・・

政府は昭和35(1960)年に貿易・為替の自由化計画を発表し、貿易の自由化率を3年後に90%に高めることを目標とした。昭和39(1964)年には、IMF協定の8条国に移行し外貨割り当て制度を廃止、為替取引も自由化された。開放経済への移行は、日本の産業や企業が国際競争の荒海に乗りだすことであり、商社にとっては情報、金融、オルガナイザーなどあらゆる商社機能を動員して経営を拡大する好機であった。


そして日綿は、非繊維部門の強化を急ぎ、高度経済成長が始まった昭和30(1955)年3月期にはわずか36%であった非繊維比率が、昭和37(1962)年3月期には51.4%に達した。


機械部門では、繊維機械の輸出を積極的に手掛け、パキスタン、インドネシア、南ベトナムなどを中心に業界トップシェアを誇った。その他にも農業機械、自動車、鉄道車両、船舶輸出も開始し、昭和38(1963)年には機械商社の老舗である高田商会との合併も行った。


石油化学工業も戦後急速に発展し、高度成長を支えた産業で、日綿の非繊維部門の主力と位置付けられた昭和25(1950)年には、米国ダウケミカル社のポリスチレン樹脂を日本に初輸入、射出成型機の普及に努め、我が国合成樹脂産業の草分けとなった。また国内における合成樹脂製造部門にも進出、シンガポール、マレーシアにおいても塩ビ製品の製造工場を設立。昭和33(1958)年に我が国初の石油化学コンビナート誕生と共に各社の販売代理権を獲得した。


日綿は従来、鉄鋼分野への進出が遅れていたが、鋼材需要の急拡大を受け、後発の日綿にも参入の余地が生まれた。昭和25(1950)年には米国炭、昭和27(1952)年にはインド産鉄鉱石の八幡製鐵向け契約に成功し、また八幡製鐵、富士製鐵の輸出指定問屋となり、鋼材輸出を手掛けた。また国内でも八幡製鐵の指定問屋として国内流通網整備を強化していく。


また石炭から石油へのエネルギー政策の転換を背景に、原油取引に参入し、ソ連・中東原油の輸入を開始。昭和37(1962)年には、ニチメン石油を設立してガソリンスタンドの全国展開を開始した。


昭和39(1964)年、アルゼンチン農協(ACA)から飼料穀物の輸入開始、食品分野ではインンスタントラーメンの販売を開始するなど取扱品目の拡張を進めた。

  • インドネシア国営チラチャップ紡績工場とその内部

  • ポリスチレン樹脂

  • 大阪地区の第1号ガソリンスタンド天王寺給油所