中東プラント受注ラッシュ
オイルマネーで潤う中東のインフラ開発を支援
昭和48(1973)年に始まった第1次オイル・ショックは、石油消費国に原油価格の高騰をもたらし、中東の産油国には、膨大な石油収入をもたらした。この豊富な「オイルマネー」を武器に、中東諸国は国内建設に力を入れ、大型プラントを日本などの先進国に相次いで発注した。
日綿は、中東のプラント商権に早くから着目し、昭和43(1968)年12月にはアラビア半島で最も有望な市場として、サウジアラビアのジェッダに駐在員事務所を開設、石油関連の商権開拓に乗り出していた。日綿の中東向けプラント輸出第1号は、サウジアラビア向けセメントプラントであった。
当時、サウジアラビアでは5大財閥のひとつであるスレイマン・グループのアラビアン・セメント社が日産1,000tの工場を稼働させていたが、需要をまかないきれず、日本などから輸入をしていた。セメント不足に対処するため、アラビアン・セメント工場の大増設計画を決めた。この情報を受け、日綿は日系プラントメーカーと組んで国際入札に参加。欧州の有力プラントメーカーと激しい受注競争を繰り広げたが、サウジアラビア市場での日綿の実績が評価され、昭和47(1972)年に契約調印が行われた。
新工場の稼働により、サウジアラビアのセメント生産量は一挙に30%も拡大し、ファイサル国王も、この画期的なプロジェクトの成約を日本からの技術移転の好例として高く評価し、日本側関係者と接見している。
昭和50(1975)年以降も、日綿は日系プラントメーカーとともに、サウジアラビアにおいて数多くのプラント輸出を成約した。特にサウジ・バハレニ・セメント社向けに落札したプロジェクトは、日産約6,000tという超大型プラントであり、石灰石鉱山開発、一貫セメント製造設備、水処理などのユーティリティー設備その他の付帯施設、さらに500人の従業員の採用から工場運営などをすべて含んだ契約であった。工場は、昭和55(1980)年に稼動し、中東におけるセメントプラントのモデルケースとなった。
また、昭和53(1978)年にはジェッダ国際空港給油設備、同空港内の変電所プラント、原油パイプライン敷設設備プロジェクト等を連続受注した。砂漠の中でのパイプライン敷設工事は困難を極めたが、これは中東における初の日本人が手掛けるパイプラインプロジェクトとして画期的なものであった
昭和54(1979)年に受注した海水淡水化プラントも特筆に値する。サウジアラビア淡水化公団(SWCC)がアラビア湾岸東部にある工業団地とリヤドへの工業用水・生活用水を供給するために建設したもので、世界最大級の淡水化プラントであった。この商談もセメントプラント同様、激しい国際競争となったが、日綿の実績と日系プラントメーカーの技術力が決め手となり、受注している。
サウジアラビアの他にも、同時期にアブダビにてセメント及び海水淡水化プラントを受注しており、日綿はオイルマネーで潤う中東のインフラ開発をプラント輸出等により支援していった。