日商

鈴木商店の再起組が日商を設立

スモール・スロウ・バット・ステディ(ちっぽけで、歩みも遅くても仕方がない。堅実に行こう)

日商株式会社は、鈴木商店破たん後に、鈴木商店の貿易部門であった「日本商業」を分離させ新たな出資者を募ることでスタートしている。その設立に中心的な役割を果たしたのが、元鈴木商店ロンドン支店長の高畑誠一と本店総支配人であった永井幸太郎である。

高畑・永井らにとって、いままで築きあげてきた外国貿易における鈴木の地盤をみすみす三井や三菱に譲ってしまうことは断腸の思いであり、鈴木の若手社員のために新たな会社を作ろうと決意し、出資者集めや大口債権者からの協力を得るべく奔走した。

財界の大物たちからは、「鈴木は破綻したけれども、鈴木の若い有為な人を散らばしてはならぬ」(台湾銀行森頭取)、「日本の貿易は三井と鈴木の二本柱で発展してきた。日本の繁栄のためには貿易が必要。貿易の知識を持っている人たちが散らばるのは残念だし、日本の損失だ」(各務謙吉)と様々な協力を得ることができた。また、台湾銀行をはじめとした金融機関には、旧日本商業に対する債権を新会社の出資金に振り替えてもらい、そして鈴木商店残党組39名が出資をして「日商」として再スタートした。

こうして昭和3(1928)年2月8日、鈴木商店破綻からわずか100日余りで日商の設立総会が開かれ、高畑・永井は取締役に就任した。資本金は100万円で鈴木商店時代の80分の1の規模であった。

高畑たちは鈴木倒産の教訓から、「不況に強い堅実経営」を狙い、「スモール・スロウ・バット・ステディ(ちっぽけで、歩みも遅くても仕方がない。堅実に行こう)」を新会社のモットーとした。

旧鈴木商店の神戸製鋼所、帝人といった事業会社は台湾銀行管理下となり、その後、独立していくことになる。一方で、鈴木商店を世界のスズキに導いた金子直吉は、日商への参加を認められず、鈴木家と共に太陽曹達を軸にお家再興を図ることになる。

[外部サイト]
鈴木商店記念館>鈴木系企業の整理の行方>日商(現・双日)の歴史①

高畑誠一像
永井幸太郎
日商の設立総会が行われた江商ビル