中川小十郎と加島銀行、そして鈴木商店

NHK連続テレビ小説「あさが来た」は広岡浅子の一生をモデルとしており、実在する浅子の夫・信五郎は日本綿花(現・双日)発起人の一人でもある。広岡浅子が主導した加島銀行の経営を支えたのは中川小十郎。ドラマでは、へいさんこと山崎平十郎が、中川小十郎のモデルとされている。


実際の中川小十郎は文部省の官僚。西園寺公望文部大臣の秘書官であったが、西園寺の辞職を機に、明治31(1898)年に加島銀行理事に就任。日本綿花も設立当初から加島銀行から資金的な支援を受けていたといわれ、中川小十郎が加島銀行に入行した頃は、日本綿花はインド綿だけでなくエジプト、米国そして中国からの綿花輸入を拡大していた時期でもあった。


一方、中川小十郎と双日のもう一社の源流である鈴木商店とも関係が深い。


中川小十郎は、加島銀行を離れた後、樺太庁書記官を経て大正元(1912)年に台湾銀行副頭取に就任。大正14(1925)年に退任するまで台湾銀行の経営に携わる。鈴木商店が大正6(1917)年に日本一の総合商社に登りつめたのも、台湾銀行よる資金面での支援が不可欠であった。その後、鈴木商店の経営が急速に悪化し、中川小十郎は同時期に頭取に就任。そして元副頭取の下坂藤太郎を再建請負人として鈴木商店に派遣する。しかし、昭和2(1927)年に鈴木商店は破綻。台湾銀行の全融資5.4億円の内、3.6億円が鈴木商店向けであった。ちなみに、中川小十郎により派遣された下坂は、鈴木商店破綻後に、高畑誠一らが日商(現・双日)として再スタートする際に、初代日商社長に就任している。

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