日本・尼崎地方の綿花栽培

現在放映中のNHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデルである広岡浅子の夫、広岡信五郎は、尼崎紡績の初代社長でもあり、日本綿花の発起人の一人でもある。


尼崎は広岡家発祥の地でもあり、また綿花(木綿)の栽培地であった。こうした背景から近代的紡績工場である尼崎紡績が設立され、広岡信五郎が初代社長に抜擢されたとされる。綿花栽培の歴史をご紹介します。


<日本の綿花栽培の広がり>
日本で初めて綿花栽培に成功したのは明応年間(1492~1501)頃で、三河国で綿作と機織りが行われ、その後、天正年間(1573~1592)には、近畿地方、大和、河内、摂津、和泉、播磨などに広がった。即ち尼崎にて綿花が栽培されはじめたのは戦国時代の頃ということになる。


<尼崎での綿花栽培>
尼崎では、江戸時代に入って尼崎藩による新田開発により農地が広がり、商品作物の生産が活発化した時期に綿花栽培が進んだ。当時、稲よりも綿花の方が高値で取引されたという。18世紀初めには、猪名川や藻川の流域、武庫川下流の新田地帯の3-4割で綿花の栽培が行われ、上質な綿花として重宝された。


綿花には干鰯(イワシを原料とした肥料)とよばれる肥料が大量に使用された。大阪の商人が尼崎や堺などで干鰯の取り引きを行っていたという。尚、大阪財界三大巨頭といわれ、日本綿花の発起人で2代、5代社長の田中市兵衛は、この干鰯を扱う肥料商であり、綿花とはこうしたつながりがあった。


<綿花栽培の衰退>
日本における綿花栽培も、開国により貿易が再開されると、英国から安価な綿織物が輸入され、日本の綿花の産地は大混乱に陥った。さらに国内の綿織物業者が輸入糸を使用し始め、綿作農家はますます窮地に陥った。


明治15(1862)年頃から中国綿の輸入が始まると、国内の綿花栽培も急速に衰退。尼崎では、尼崎紡績が輸入綿花を使用したため、明治34(1901)年頃には綿花栽培はほとんどなくなった。


参考文献:ニチメン100年、尼崎市史他

  • 明治時代の綿花栽培