2025.02.07 UP
IoTやビッグデータ解析、AIなどのデジタル技術がさまざまな産業で活用されている現在。生産者の手や経験に頼るところが大きい農業の現場においても、作業の効率化や生産性の向上、品質の安定化などを実現する手段として関心が高まりつつあります。そんな中、 “AR(拡張現実)技術”を活用した農作業補助アプリを開発する岸圭介さんに話を伺いました。アプリ開発にかける思い、その先にある農業の未来とは――。
Text_Tomohiko Ando
Photograph_Kenichi Fujimoto
“現実の風景にデジタル情報を重ね合わせる、
AR(拡張現実)に見た可能性――”
今回の取材は、岸さんがアプリ開発のテスト場としても利用することが多いという、神奈川県南足柄市の農場で行った
ロボットやAI、IoTなどのデジタル技術を活用した次世代型の“スマート農業”。自動運転トラクターや農薬散布ドローンなどが実現していますが、日本の農業現場においては必ずしも最適とはいえない側面もあります。たとえば、自動運転トラクターは広大な農地での作業において高い効率性を発揮する一方で、広さによっては高額な設備投資に見合わない場合もあり、誰もが導入できるわけではありません。
そんな中、岸さんが着目したのはAR(拡張現実)技術。現実の風景や物体にデジタル情報を重ね合わせるもので、スマートフォンやタブレットといった身近なデバイスを通じて手軽に利用できることが特長です。すでに、スマートフォンを使って現実世界にアニメキャラクターを出現させるゲームや、家具・家電の配置シミュレーションなど、日常生活のさまざまな場面で活用されており、さらに教育、産業、医療など多岐にわたる分野に広がりつつあります。
「AR技術を活用すれば、みんなが持っているスマートフォンを使って、誰もが使いやすい作業効率化ツールをつくれるのではないか」。そう考えた岸さんが開発を進め、誕生したのが農作業効率化アプリ「Agri-AR」です。
左)タブレットを用い「Agri-AR」を使用した際の様子 右)「Agri-AR」上に表示されるさまざまな機能のデモ画面。左から、デバイスに農場を写すだけで平行直線やサイズの穴開きマルチを配置する「平行直線ガイド」、作物の大きさを測る「サイズ計測」、仮想の畝などを現実空間上でシミュレーションできる「畝・苗シミュレーション」
「Agri-AR」は、スマートフォンなどのデバイスに現実世界に広がる農場などを映しながら、画面上で計測やシミュレーションなどの農作業補助業務を行うことができるアプリです。たとえば、農場で土壌を耕したり整地したりする際に欠かせない“平行に直線を引く”工程。
「平行直線を引くには、ふたりで両端からロープを引っ張って固定した後、ロープに沿って歩き、足跡で線取りを行う必要があります。単純な作業のわりにふたりがかりですが、『Agri-AR』を使えばひとりでの作業が可能になる上に、大きく作業時間を削減できます。また風が強いとロープがブレることもありますが、アプリではそうした問題も解決できます」
畝の本数や間隔、必要株数などのシミュレーションもデバイス上で行えるようになり、従来必要だった、畑の面積などの数値データを用いて計算する手間が軽減できます。作物の大きさを測る作業も、指先を画面上の対象に当てるだけでミリ単位でのサイズ計測ができ、ワンタッチでデータ保存が可能に。
「外作業では手についた汗や泥により、計測後の数値入力にも時間がかかりますが、『Agri-AR』を使うと、計測自体が簡単になることに加え入力の手間も省けます」
これらの農作業補助機能を実装し、“安価で、誰でも、どこでも”使える「Agri-AR」は、開発後9カ月で日本国内の農園や農業技術センターなどに約300台が納入されました。
スマートグラス(メガネ形のウェアラブルデバイス)を用いたデモンストレーション。目の前の現実空間の中にデジタル情報を重ねて表示し、空間に指をかざすだけで操作することができる
こうした農作業現場での「あるとうれしい」機能の実装は、研究・開発時に埼玉県深谷市で行った実証実験と、岸さん自身の農作業経験から生まれました。
“何もかもが新鮮だった農業体験。
同時に、農業が抱える課題も目の当たりに。”
岸さんと農業の出会いは、学生時代に遡ります。
「農業に出会ったのは18歳、大学1年生のときでした。高校生の頃から教科書的な経済や社会の考え方に違和感があったりして、モヤモヤと考えていたのですが、モヤモヤを解決するヒントが農業にあるんじゃないかと直感的に思いました」
入学したばかりの大学を休学して北海道の農場に住み込みで働くことに。この1年間の経験が、農業への関心をさらに高めることになります。
「毎朝毎晩100頭を超える牛の世話をし、日中に作物をつくる生活。何もかもが新鮮でした。人にとって欠かせない価値を生産することに直接携わっているという安心感が心地よかった。同時に、農業が抱える課題も目の当たりにしました」
1年後に復学し、大学を卒業した後は一般企業へ就職。いきなり農業に飛び込まなかったのは「一度大きなビジネス、特にモノづくりに関わる仕事を見てみたかったから」と話します。
「心の底では『結局は農業に戻るんだろうな』という思いはあって、結果そうなりましたが(笑)。製鉄所での生産管理の経験は、起業後にもとても役に立っています」
5年間の会社員生活を終え、再び農業の道へ。茨城県の農業生産法人で2年間、牛や米などを育てる日々を送りました。その後、起業を見据えてイギリスに2年間のMBA留学。帰国後の2017年、農業DXに取り組む株式会社Rootを設立しました。
神奈川県南足柄市の農場には、野菜などの作物を育てる畑があり、2頭のヤギを飼育している
自らの農業経験をベースに、現場のニーズに即したARアプリ開発を推進する日々。岸さんの目指すところのひとつに、小規模農業の活性化があります。
「世界的に見て日本の農地は小さく、大規模な効率化対策をとることができないこともあり、経営が難しいという実態があると思います。開発している『Agri-AR』アプリは、小さな農地でも効果を実感できるようにと機能も価格も設計しています。この小規模農業の課題は東南アジアなどでも共通で、フィリピン、ベトナム、インドネシアなどでもアプリの導入を進めており、無料会員登録だけでいえば、日本での登録数を既に上回っています。海外の農業の課題解決にも貢献できるような事業にしていきたいと考えています」
“すべての経験がつながって、
今に至っている。”
岸さんはアプリ開発やAR技術を独学で習得したといいます。今もアプリ開発はすべて自分ひとりで完結させ、農家からリクエストがあれば、アプリへの新機能追加は最短1日で対応可能とも。大切にしているのは「まず、挑戦すること」。
「プログラミングの知識がなくても、アプリ開発できるツールは今やたくさん存在します。『とにかく作ってみよう』と挑戦することが大切です。そこに『こういうものが作りたい』という思いがあること、このふたつが揃えばアプリ開発の実現に大きく近づきます。自分が欲しいと思ったものを、自分で調べて開発する。そうやって今に至っています」
大学時代の農業体験を入り口に、何を実現したいのか、どうやったらできるのかを自ら考え、行動してきた岸さん。それらの経験すべてが今のアプリ開発につながっていて、今なお挑戦を続けています。
指先ひとつで世界中の知識にアクセスできる“情報の時代”。大切なのは“知っていること”ではなくて、情報を活用してやりたいことを実現すること。とにかくいろいろなことを自分で触ってみて、一度やってみる。そうやって積み重ねた経験が、あらたな可能性を広げてくれるのかもしれません。
(所属組織、役職名等は記事掲載当時のものです)
岸圭介
株式会社Root 代表取締役