HomeSpecial体験だけは、誰にも奪えない。 ノンフィクション作家・川内有緒が大切にしてきたこと

Vol.03

伝 / つたえる

2026.09.30 UP

体験だけは、誰にも奪えない。
ノンフィクション作家・川内有緒が大切にしてきたこと

article_61_img01.webp数々の文学賞を受賞し、ドキュメンタリー映画の監督としても活動するノンフィクション作家・川内有緒さん。人への興味を原動力に、さまざまな作品を生み出してきました。

そんな川内さんも、「自分の働き方はずっと模索し続けてきた」といいます。思い描いた通りに進まないことも、思いがけない状況に直面することもありました。

その時々で何を考え、どんな道を選んできたのか。川内さんのこれまでをたどります。

Text_Interview_Kazuhiro Hojo
Photograph_Takahisa Inazaki
Edit_Takahiro Kato

全盲の白鳥さんと美術館へ

“なんて面白い体験なんだろう、と思った。”

「全盲だけど、年に数十回も美術館に通っている人がいる」

20年来の友人からそう聞いたことが、白鳥建二さんとの出会いのきっかけでした。

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三菱一号館美術館にて。右は白鳥建二さん

川内さんが初めて白鳥さんと一緒に訪れたのは、東京・丸の内の三菱一号館美術館。開かれていたのは、アメリカ・ワシントンD.C.にある美術館、フィリップス・コレクションの展覧会でした。

大学院卒業後、ワシントンD.C.で働いていた川内さんにとって、フィリップス・コレクションは何度も足を運んだ懐かしい場所でした。

目の前の作品を見ながら、自分には何が見え、何を感じているのかを言葉にして白鳥さんに伝える。話しているうちに、ワシントンD.C.で暮らしていた頃の記憶まで次々とよみがえります。

「不思議な感動を覚えました。自分の記憶を掘り下げたり、観察する力を駆使して言葉で伝えたりする。今までにない美術の見方で、なんて面白い体験なんだろうと思いました」

もっと一緒に見てみたい――。それから川内さんは、白鳥さんとさまざまな美術館を訪ねるようになります。美術を離れて交わす話も面白く、「知らなかったことをたくさん教えてくれる人だった」と振り返ります。

そうして対話を重ねる中で、自分の中にあった思い込みに気づくこともありました。

あるとき川内さんは、白鳥さんの頭の中にはどんな像が浮かんでいるのかと尋ねました。すると白鳥さんは、生まれつき目が見えない自分に、見える人と同じような「ビジョン」があるわけではない、と答えました。

「私たち見える人の側に、『目の見えない人は、見える人が見ている景色を見たいんじゃないか』という思い込みがあるのかもしれない、と気づきました」

白鳥さんと美術館を巡るうちに、川内さんは、この体験を本にしたいと思うようになります。それが、2021年に刊行された『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』です。

本は多くの読者に届き、重版を重ね、海外でも読まれるようになりました。

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映画『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』上映後のアフタートーク(左)と、来場者との記念撮影(右)

今ではノンフィクション作家として活躍する川内さんですが、そこに至るまでの道のりは、決して一直線ではありませんでした。

映画をつくりたかった10代、22歳でアメリカへ

“日本を出れば、何か変われるんじゃないかと思った。”

10代の川内さんが夢中になっていたのは、映画づくりでした。中学1年生で映画をつくりはじめ、文章も書くようになります。部活動には入らず、創作に打ち込む日々を送っていました。

「ほかの人と合わせて何かをやるのが苦手で、自分なりの表現をしたいという気持ちがずっとありました」

映画をつくって生きていきたいと日本大学芸術学部の映画学科を目指しますが、不合格。進学したのは放送学科でした。そこで経験したテレビ番組制作では、さまざまな人がそれぞれの技術を持ち寄り、一つの番組をつくり上げていきます。

「当時は、自分なりのやり方でつくりたいという気持ちが強すぎました。自分が苦手とする共同作業も多く、映画制作は自分には合わないと感じるようになりました」

さらに、報道を学ぶ中で別の壁にもぶつかります。撮ったり書いたりする技術以前に、自分には伝えるべき「中身」がないのではないか――。

「社会の問題に対して、自分は何も知らないと思いました。このまま社会に出ても、ろくな人間にならないんじゃないか。つまらない人間のまま、ここまで来ちゃったんじゃないかという焦りがありました」

自分はこの先、どうすればいいのか。川内さんは「完全に行き詰まっていた」と振り返ります。

「それで、『アメリカに行こう』と。日本を出れば何か変われるんじゃないかという、単純で、漠然とした理由でした」

大学卒業後の22歳。川内さんはアメリカへ渡ります。言葉も通じない、何も知らない国へ。それまでの環境から自分を切り離すように、新たな生活を始めました。

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メキシコシティを旅行中

25歳、気づけば会社を一人で背負っていた

“難しい仕事ほど、やっている感触がある。”

渡米後、川内さんはワシントンD.C.のジョージタウン大学大学院へ進学し、中南米地域研究を専攻します。専攻を決めた理由の一つは、父親にありました。

「一獲千金を夢見ていたのか、父親はペルーやブラジルへたびたび渡っていました」

帰国するたびに大きな絨毯や置物などを持ち帰り、家には中南米の品々があふれていたといいます。

「そんな環境で育ったこともあって、子どもの頃から中南米に不思議な憧れがありました。もっと知りたい、いつか自分も行ってみたいと思っていたんです」

大学院修了後は、ワシントンD.C.の小さなコンサルティング会社に就職します。仕事で中南米へ行けることが決め手で、入社時にはパナマで進む調査プロジェクトへの参加も決まっていました。

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アメリカのコンサルティング会社で働いていた頃。パナマにて

ところが、働き始めると状況は一変します。先輩のコンサルタントたちが次々と会社を去り、社長も海外にいることが多い。気づけば25歳の川内さんが、会社の実務をほぼ一手に担うことになりました。

「コンサルティングの仕事はもちろん、銀行の手続きから契約管理、経理、トイレ掃除まで。何もかも自分一人でやらなければならない。相談できる人もいなくて、まさにサバイバルでした」

さらに、川内さんが入社する前の出来事をめぐって会社が訴えられ、その対応にも追われます。プロジェクトは動き続けているため、海外出張にも出なければなりません。

「私が辞めたら会社は崩壊すると思いました。だから、やれることはやろう、と。本当に忙しい、信じられないような3年間でした」

それでも、難しい仕事ほどやる気が出たといいます。

「できるかどうかわからないくらいのほうが、やっている実感があります。『たぶん、できます』と言って、あとで頑張って帳尻を合わせるんです」

その後、川内さんは日本へ帰国。次に待っていたのは、これまでとは対照的な、組織のルールの中で働く日々でした。

「ワイルドな動物」、そして「珍獣」

“苦労や難しさはあって当然。
でも、理不尽なことは受け入れられない。”

帰国後、川内さんが働き始めたのは国内有数の大手シンクタンクでした。最初はアルバイトとしてスタートします。

「前の会社とは正反対でした。統制の取れたところに、急にワイルドな動物が入ってきたような感じで、向こうもびっくりしたと思います」

次第に責任のある仕事も任されるようになり、仕事そのものには大きなやりがいを感じていました。その一方で、働く中で厳しさにも直面します。

「日本の会社なので、どうしても周りと合わせないといけない。それが自分にはすごく窮屈でした。仕事も本当にハードで、このままでは愛も恋もない、殺伐とした砂漠みたいな人間になってしまうと思いました」

約3年働いた後、川内さんは再び海外へ。31歳でパリのユネスコ本部に勤務することになりました。

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パリのユネスコ本部で働いていた頃

そこで待っていたのは、また別の世界でした。世界各国から人が集まり、言葉も文化も価値観も違う。会議を開いても、なかなか結論にはたどり着きません。

「それぞれが自国のカルチャーを背負っているから、言っていることはそれぞれに正しい。だからこそ、一つにまとめるのが本当に難しい。互いの文化を尊重しながら、物事を効率よく進めていくことの難しさを実感しました」

5年半を過ごした後、川内さんはユネスコを離れることを決めます。いくつもの組織で働くうちに、自分にとって譲れないものも明確になっていました。

「物事を良くするためなら、苦労や難しさがあるのは当然だと思っています。でも、『そういうふうに決まっているから』と理不尽なことを押し付けられるのは受け入れられないんです」

だからといって、自分を貫き通してきたわけでもありません。

「なんとか会社に馴染もうとしてきたけれど、どうしても馴染めない自分がいる。そんな自分と付き合いながら、ずっと働き方を模索してきたんだと思います」

やってみなければ、見えないもの

“思い通りじゃなくてもいい。
重ねた時間は、自分の中に残っていく。”

国際協力の仕事で世界各地を訪れる中で、川内さんは多くの人に出会い、たくさんの面白い話を聞いてきました。もっと人の話を聞きたい。そして、自分でも書いてみたい――。そんな思いから、ユネスコを離れた後はノンフィクション作家として活動を始めます。

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バングラデシュで吟遊詩人「バウル」を取材

ベンガル地方の吟遊詩人「バウル」を訪ねた『バウルを探して』も、そうして生まれた一冊です。ユネスコ時代、バングラデシュでその存在を知りながら出会えなかったバウルを求め、作家となった後に再び現地へ足を運びました。人々の話を聞きながら書き上げた同作は、第33回新田次郎賞を受賞しました。

振り返れば、これまで重ねてきた経験の一つひとつが、今の自分の糧になっているといいます。

「体験って、唯一、ほかの人から奪われないものだと思うんです。お金や時間は失うことがあるかもしれない。でも、自分の中に得た経験は、誰にも奪われない。それを自分の財産にしていけばいいと思います」

そして、目を向ける先は遠い未来ではなく、「今」です。

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「10年後、20年後という未来よりも、今、今日、自分に何ができるのか。人生って、そういう『今』の積み重ねだと思うんです。

考えているだけではわからない。まずやってみて、違うと思ったら軌道修正すればいい。やってみなければ、わからないことのほうが多いですよね」

先のことはわからない。だからこそ、今日できることから始めてみる。

その一歩からしか見えない景色が、きっとあります。

PROFILE

(所属組織、役職名等は記事掲載当時のものです)

川内有緒

ノンフィクション作家

1972年、東京都生まれ。日本大学芸術学部を卒業後、渡米。米国ジョージタウン大学大学院で中南米地域研究学修士号を取得。アメリカのコンサルティング会社、日本のシンクタンク、パリのユネスコ本部勤務を経て38歳でノンフィクション作家に。ベンガル地方に伝わる歌・バウルを追った『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』で第33回新田次郎賞、現代美術家の蔡國強といわき市の志賀忠重の交流を描いた『空を行く巨人』で第16回開高健ノンフィクション賞を受賞したほか、著書多数。近年は映画制作にも活動を広げ、『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』『ロッコク・キッチン』では共同監督を務める。

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