2026.06.29 UP
「無理だ」と言われる仕事ほど面白い。誰もやったことがないからこそ挑戦する。
京都の指物師・村山伸一さんは、そんな姿勢で伝統木工の可能性を広げ、新たな表現を生み出してきました。
釘を使わず木を組み上げる、千年以上受け継がれてきた「指物」の世界。
伝統技法を未来へつなぐために必要なのは、守ることか、それとも変えることか。
人生最大の挑戦となったパレスホテル東京の神殿製作を軸に、村山さんの仕事観と挑戦の哲学をたどります。
Text_Interview_Takayuki Hakamada
Photograph_Kimi Takeuchi
Edit_Keigo Kawasaki
“人生を変える仕事は、だいたい怖い。”
2012年、パレスホテル東京。
日本を代表するラグジュアリーホテルの神殿に、木だけでつくられた立体的な組子細工が完成しました。
天井から壁面まで広がる繊細な木工装飾。その空間を手がけたのが、京都の指物師・村山伸一さんです。

パレスホテル東京の神殿
「友人のデザイナーから『パレスホテルの神殿、やってみないか』と声をかけられたのがきっかけでした。僕は京都人なので、京都にある名前の似た別のホテルを思い浮かべて、気軽に『やるやる』と引き受けたんです。
ところが後になって、東京の一流ホテルだと知って青くなりました。“無茶ぶりやないか”って」
細い木片を釘を使わず精密に組み上げ、繊細な幾何学文様を描く「組子」。指物師が受け継いできたその技を、空間全体へ立体的に展開した前例のない試みでした。
製作期間は約1年半。何万点もの部材を加工し、空間全体を組子で構成する。自身でも経験のない規模のプロジェクトでした。

「納期に間に合うだろうか。もし間に合わなければ、何千万円という違約金を請求されるかもしれない」
天井から吊り下げた装飾が落下する夢を見て、夜中に飛び起きることもあったといいます。それでも村山さんは、手を止めませんでした。
「無茶ぶりでなければ誰でもできる。人生を変えるような仕事は、だいたい怖いんですよ」
“遠回りだったから見えた景色がある。”
京都で額縁をつくる職人の家に生まれた村山さんは、幼い頃から木と工具に囲まれて育ちました。それでも、家業を継ぐつもりはまったくありませんでした。
「家の仕事を継ぐのは絶対に嫌だと言い切っていました。親父は『こんな儲からん仕事』と愚痴をこぼすし、正直あまり夢のある仕事には見えなかったんです」
高校に入る頃には音楽に夢中になり、卒業後はプロのミュージシャンを目指しました。インディーズバンドのドラマーとして全国を回り、ライブハウスを巡る日々。当時は本気で音楽で食べていこうと考えていたといいます。

インディーズバンド時代の写真
しかし、続けるほどに現実も見えてきました。自分より才能のあるミュージシャンに数多く出会い、音楽だけで生きていくことの厳しさを感じ始めます。
そんな頃、父親が病に倒れました。工房を支える人が必要になり、村山さんは京都へ戻る決断をします。
「人生に少し迷い始めていた時期と、親父の病気のタイミングが重なったんです」
当初は、父が回復するまでの手伝いのつもりでした。ところが実際に工房へ入ると、少しずつ気持ちが変わっていきます。木を削り、形をつくり、目の前で作品が完成していく。自分の手で何かを生み出す面白さに、改めて気づかされたのです。

村山さんは笑いながら振り返ります。
「やってみたら意外と楽しかったんですよ」
“行き止まりは、新しい入口になる。”
木工の仕事に面白さを見いだした村山さんでしたが、職人としての道のりは決して順風満帆ではありませんでした。
父親から独立して工房を立ち上げた後は、京都の老舗人形店から依頼を受け、雛人形のお飾りや節句の調度品、飾り台、茶道具などを手がけるようになります。
「宮中のしきたりや装束、文化にまつわる知識や技術を学びながら、それを木工で形にしていくのが楽しくて。夢中で吸収していた十数年間でした」

ひな人形の調度品(左)、木工の仕事を始めた頃に手がけていた額(右)
ところが、時代は大きく変わり始めます。少子化や住宅事情の変化によって、ひな飾りなどの伝統工芸品の需要は縮小し、仕事は年々減っていきました。
家族を養わなければならない立場で、「本当にこの仕事だけで食べていけるんだろうか」と、将来への不安は日に日に大きくなっていったといいます。
そんなある日、長年世話になっていた老舗人形店の主人から思いがけない言葉をかけられます。
「お前、もう木工やめて、違う仕事を探した方がええぞ」
業界の厳しさを誰よりも知る人物からのひと言でした。もちろん悪意ではなく、村山さんの将来を心配しての助言でした。それでも、その言葉は強く胸に残ったといいます。
「その時に思ったんです。ああ、もう今までと同じことをしていても無理なんやな、と」

「伝統は大切です。でも、この時代に生きる人が魅力を感じるものでなければ残らない。デザインや形を変えることも必要だし、伝統技術や有識故実の知識を使って新しいことにチャレンジしたいと思いました」
試行錯誤を繰り返す中で、ひとつの発想が生まれました。
本来、組子は障子や欄間など平面的な意匠として使われることがほとんどです。しかし村山さんは考えました。
「もし組子を立体化できたら、どうなるだろう?」
“前例のない場所に、新しい技術は生まれる。”
立体組子という発想は、やがて村山さんの代名詞になっていきます。
組子に陰影をつくり、光を受けて表情が変わる。空間そのものを彩る。
そんな発想から生まれた作品は、それまでの組子にはない存在感を放っていました。

京都の工房に併設されたカフェ「MushRoom Cafe」に展示されている組子シャンデリア
さらに挑戦は続きます。
平面でしか製作できないとされていた組子を、曲面へと展開する技術の開発です。
「『曲がった組子はできませんか』と聞かれたんです。今まで世の中になかったし、できませんと言うのは簡単でした。だけど、できませんと言ってしまったら、そこで終わりですからね」
前例のない挑戦は、やがて大きな仕事を呼び込むようになります。
パレスホテル東京の神殿装飾をきっかけに、ザ・リッツ・カールトン京都やパーク ハイアット 京都、グランドプリンスホテル新高輪など、国内外のラグジュアリーホテルや商業施設からも依頼が寄せられるようになりました。
そうした仕事を通じて技術を磨き続け、独自の曲面表現を確立しました。
「京組子」と名付けられたその技法は、2021年に特許として認められました。

ザ・リッツ・カールトン京都(左)、グランドプリンスホテル新高輪ロビー(右)
“守るために、変わり続ける。”
村山さんには、一つの夢があります。
それは、自身が工房を構える京都・京北を、西陣織や清水焼のような「京組子の産地」にすることです。けれども、その夢について語る時、村山さんは意外なことを口にしました。
「組子そのものは、別に僕らが頑張らなくても残ると思うんです」
1400年続いてきた技術です。自分がいなくなったとしても、誰かが受け継いでいくでしょう。では、村山さんは何を残したいのでしょうか。
「若い職人には、僕のチャレンジ精神を受け継いでほしいですね。どんどんチャンスを得て、自分で考えて、自分で動いてほしい。そうやって若い子が育つことで、伝統工芸もアップデートされて、次につながっていくと思うんです」
村山さんが残したいのは、誰もつくったことのないものに挑むこと、世の中にない技術を生み出そうとすること、そして前例のないことに挑戦することです。
そうした姿勢こそが、次の時代のものづくりを支えていくと考えています。

「無茶ぶりこそが、新しいものを生み出す“お題”なんですよ。古いものをちゃんと学んできた土台がある。その上でやる無茶は、いいんじゃないかなと思うんです」
振り返れば、立体組子も曲面組子も、すべては「そんなことが本当にできるのか」という問いから始まりました。だからこそ村山さんは、今でも難題を歓迎します。できることを繰り返していても、新しい価値は生まれない。少し無理だと思うところにこそ、未来の可能性があるからです。

そして、その挑戦は突然始まるものではないと村山さんはいいます。
「チャンスをつかめるかどうかは、それまでにどれだけ準備できていたかということだと思うんです」
若い頃に興味を持って挑戦してきたことや、夢中になって取り組んできたこと。一見すると遠回りに思える経験。それらはすべて、自分の引き出しの中に積み重なっていきます。
「若い時は、自分が興味あることをどんどん取りに行ったらええと思うんです。それが全部、血となり肉となるんですよ。
無駄に思えても、自分が面白いと思うことに夢中になる。人の目や評価を気にしない。
自分が信じたことをやってみる。それが大事なんじゃないかな」
そして最後に、こんな言葉を送ってくれました。
「やったから成功するとは限りません。でも、やらなければ絶対成功はない。だから、自分を信じろ、やね」
パレスホテル東京の神殿を完成させたあの日から十数年。今も村山さんは「無茶ぶり」を待っています。
新しい伝統は、いつだって誰かの挑戦から始まる。
そのことを、村山さん自身が証明し続けています。
(所属組織、役職名等は記事掲載当時のものです)

村山伸一
指物師
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