総合商社双日へと続く 広岡浅子・広岡信五郎の物語

広岡信五郎―。双日の源流の一社である日本綿花(後のニチメン)の発起人の一人です。妻は明治・大正の女傑といわれた広岡浅子。2015年秋から放映中のNHK連続テレビ小説『あさが来た』で、玉木宏さん演じる「主人公・あさの夫」といえば、イメージがしやすいでしょうか。

ドラマでも触れている通り、明治維新で経営の危機に陥った嫁ぎ先を支えるため、広岡浅子は女性でありながら加島屋の経営に加わります。信五郎はそのよき理解者として妻を支えますが、信五郎自身も経営者として成長、活躍していきます。二人は加島屋を近代的な企業グループへと立て直すことに成功し、銀行や炭坑、生命保険会社といったさまざまな事業を二人三脚で手掛けていきます。その一つが紡績業であり、日本綿花(ニチメン)の設立にもつながったのです。

信五郎と浅子の物語は、常識にとらわれず、自由な発想で考え、新たな価値を社会に実現していくという双日のスローガン「New way, New value」にも通じるものがあります。二人の夫婦の物語がいかに総合商社に発展していくかご紹介します。

画像左:日本綿花社屋 画像中:広岡浅子(画像提供:大同生命保険株式会社) 画像右:広岡信五郎

加島屋と信五郎

広岡信五郎が生まれた豪商「加島屋」は、諸藩のメーンバンクを幅広く務めた日本でも有数の商家でした。幕末には幕府の貿易管理会社「兵庫商社」の設立に関わり、また新撰組にも資金を融通したことで知られています。

信五郎は明治になると加島屋の中心人物として、妻の浅子、弟の久右衛門正秋とともに経営の立て直しに奔走します。なかでも浅子は最前線に立ち、新たな事業として石炭事業に参画するなど、座右の銘である「九転十起」の言葉通り、どんな困難にも屈せず果敢に挑戦し続けました。浅子が女傑とよばれるほど大実業家となったのも、信五郎が浅子のよき理解者として支援し続けたからではないでしょうか。

信五郎自身も、趣味の謡を楽しみながらも実業家として活躍し、五代友厚を中心とした財界グループの一人として大阪株式取引所(現大阪取引所)の肝煎(理事、現在の役員)に就任するなど、大阪財界で活躍するようになります。浅子の奮闘ぶりに信五郎は相当な刺激を受けたことと思われます。

信五郎ら大阪商人、国益のために立ち上がる!!

明治22(1889)年、信五郎のもとに「尼崎紡績(現・ユニチカ)」設立の話が舞い込みます。当時紡績業は、日本の産業基盤を支える有力な事業として注目され、大阪でも多くの紡績会社が設立されようとしていました。信五郎も仲間の大阪商人らとともに出資し、自らが尼崎紡績の初代社長に就任します。

しかし、紡績会社が製造する綿糸の原料となる綿花の調達は、ほとんどが外国商館に牛耳られていました。紡績業が日本経済の大きな柱へと成長しようとしている今こそ、日本人の手による、原料の調達が必要ではないか―。信五郎ら大阪財界人は、再び立ち上がります。

明治25(1892)年、綿花調達を目的とした会社「日本綿花」を設立。設立の趣旨書には、このように記されています。

「日本人の手による綿花の調達が、我が国の国益を左右するものである」
(「日本綿花株式会社設立の旨趣」)

信五郎をはじめとして、設立発起人となった者は総勢25名。銀行家、官僚、綿糸布商など、大阪財界の有力者を挙げての会社設立となりました。こうして設立された日本綿花が、現在の双日の源流の一社となります。

信五郎ら大阪商人の行動には、大阪の発展だけでなく、国益を守ろうという強い思いが根底にあったのです。

その後の日本綿花(ニチメン)と「双日」

日本綿花は設立後、インド、中国、ビルマ(現・ミャンマー)、東アフリカなど世界中から綿花を調達。また綿布・綿糸を世界中に輸出し、ついに日本は世界一の紡績大国となります。日本綿花は、日本企業の海外市場開拓の先駆者として、貿易立国・日本の礎づくりに貢献しました。

第二次大戦後、日本綿花は機械・エネルギー・化学分野にも進出して総合商社の道を歩みだし、ニチメンと社名を変更します。現在のオリックス、ヤマザキナビスコを設立するなど戦後経済の大きな担い手となり、平成16(2004)年には日商岩井と合併し、双日として現在に至ります。

双日が継承してきたもの Inheritance

広岡浅子と信五郎の物語は、時代の荒波の中で互いに認め合う夫婦愛から、新たな事業が生み出されました。そしてそれが今日の双日まで続き、今もなお、新たな物語が描かれようとしています。

双日には、この広岡信五郎のほかにも、日本一の総合商社となった鈴木商店の女主人・鈴木よね、「財界のナポレオン」とよばれた鈴木商店大番頭の金子直吉、禅の精神を経営に取り込んだ岩井商店の岩井勝次郎など、人間味あふれ志の高い商人の魂を受け継いでいます。

双日は現在でも「人財」を最大の資産と位置づけ、先人の志を受け継ぎながら、次代を拓いていきます。

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トリビア・エピソード集 Episode

日本綿花、世界へ羽ばたく

日本綿花は、外国資本に独占されていた綿花の輸入を日本人の手で行うため、インド、中国など世界中で綿花を買い付けました。ビルマ、アメリカから日本に綿花を輸入したのは、日本綿花が初めてです。また現在のタンザニア・ウガンダの繰り綿(綿花から種を取り除いただけの精製していない綿)工場を相次いで買収。東アフリカにおける日本企業投資第一号は、日本綿花による綿花栽培でした。

こうして、近代日本の海外市場開拓の先駆者として綿布・綿糸を世界中に輸出し、日本が世界最大の紡績大国へと発展する先導役を担いました。

このような功績が評価され、大正8(1919)年のパリ講和会議では日本綿花社長の喜多又蔵(画像左)が、西園寺公望の民間随行員四名のなかの一人に選ばれます。

また第二次世界大戦後は、中国における長年の活動が評価され、昭和35(1960)年、日本の大手企業としては初の友好商社に認定されました。(画像右、毛沢東(右から二人目)と記念写真におさまる日本綿花元社長・南郷三郎(左から二人目))

その後、航空機、プラント、石油、石炭、鉄鉱石、プラスチックなどにも業容を拡大した日本綿花は、現在のオリックスやヤマザキナビスコなども設立し、有力な総合商社として戦後日本経済のグローバル化に大きく貢献しました。

明治・大正を代表する二大女性経営者~広岡浅子と鈴木よね

大正元(1912)年の「女子の発展」と題した新聞記事で、実業界で男性を凌ぐ活躍をみせる女性として、広岡浅子と鈴木よねが紹介されています。この広岡浅子と鈴木よねは、教育の必要性を重視した点で共通していました。

広岡浅子は、幼少の頃に読書を禁じられたこと、そして独力で算術を学んだ自身の経験から、女子教育の必要性を強く感じていました。女子高等教育機関、すなわち女子大学設立を目指していた成瀬仁蔵と出会った浅子は、成瀬の考えに強く賛同し、物心両面で設立運動に協力し、日本女子大学校の設立へと導きました。

鈴木よねも、「女子にも商業教育が必要」という思いから、わが国初の公立女子商業学校である、神戸女子商業(現・神戸市立神港高校)の設立に多大な支援をしました。

当時の神戸女子商業の生徒達は、毎年須磨の鈴木よねの広大な邸宅に招かれ、演芸や模擬店などで歓待されたと伝えられています。

「大阪市パノラマ地図」(提供:国際日本文化研究センター)

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