【岩井商店・岩井産業】遺訓にみる勝次郎の人生

晩年、口述で残した自伝的遺訓

岩井勝次郎は、晩年に口述し、記録された自伝的な遺訓を残している。


そこには、大恩を受けた実父母と養父への感謝、居留地貿易に携わり、外国商館の強い支配を受けない近代商社への反転を推し進めたこと、欧州大戦では莫大な力を得たが反動不況により損を出したことなど略歴を紹介。そして子孫への助言として、バランス経営の推進や適性人事が重要であること、浮利を求めず、誠実に汗を流すべきこと、家庭円満を維持すべきことを説いている。


「余の経歴の内、子孫の参考と思考する点を簡単に認め、後日に残すものなり。


一、余は丹波南桑田郡旭村、蔭山源右衛門の二男にして、当時の教育は寺子屋にて、而も田舎のこと故普通家庭にては、読書等を教へざりしにも不拘(かかわらず)、幾分の教育を受けしは、全く父の賜なり。


一、然るに、父は余の拾弐歳の時、死去したるにより、母の甥なる大阪の岩井文助方へ奉公することになり、其の際、母は大阪に奉公する以上は、如何なる困難をも耐え忍び、立派なる商人と成ることを教訓せられ、此のことが常に心に浸み込み、余が今日を為したるは、母の慈愛に依るところなり。


一、大阪に奉公して、拾六歳の時、先輩の店員参名が辞職せし為め、其の後を引受け、夫れより参拾歳迄は、其の精神的に最も苦難時代なり。余は母の教訓にもよるが、営業上に対しては積極的方針を持し居るに、主人たり、又は養父である文助は、極めて消極的なりし為め、常に意見の相違を起こし、言ふべからざる苦痛を感ぜしものなり。


一、然しながら、営業は予想外に発展し、余が主任となりし時は、店員、小僧共合せて七名、資本金壱万円位の雑貨商なりしが、参拾歳の頃には、海外と直接取引をなし、資本金も五拾万円位に増加し、店員も参拾名位を使用するに至れり。


一、余は弐拾七歳の時、栄子と結婚し、明治弐拾九年養父文助と協議の上、資本金弐拾万円を借受け、余の独立商と変更せり。


一、明治参拾参年、商業視察の為め欧米を漫遊し、帰朝後、北浜四丁目四拾参番地に貿易店を開設せり。其の後、経済上の打撃を受けしことありしも、欧州戦争迄は先ず順調に経過せり。


一、欧州戦争開戦後は莫大なる利益を得しも、大正九年の反動は予想外にて、殆ど資本の全部を損失せり。然れ共、買先又は銀行等に対しては毫末の迷惑をかけざりしことは、今日になって誠に愉快を感ずる所なり。又、夫等の困難に遭遇しながら、精神上に苦痛を感ぜざりしは、全く養父文助の賜と常に感謝するところなり。


一、大正拾壱年には、一先ず秩序が整ひし処へ、大正拾弐年の関東大震災の為め少なからず損失を蒙りしにも不拘、大正拾四年以降は営業も順調に回復し今日を為せり。


一、各工業会社を設立せしは、欧州戦争の際、莫大なる利益を得し際に目論見しものにして、之れ又大正拾四年頃迄は、何れの工業会社共利益を見ざりしが、其の後は商店と同様、順調の成績を挙ぐることを得たり。


一、子孫の将来心得べきことは、事業は人物と資金が元素となること故、事業と信用の均衡に注意を払ふと同時に、社員の適材を適所に置くことに重き注意を払ふことを肝要とす。


一、商業と言はず、工業も営業より生ずる利益を目的とし、相場の高下によりて生ずる投機は可成(なるべく)せざるを可とす。


一、家庭は平和なること、不和があっては自然営業上に関係するものなる故、此点注意すること。」


  • 勝次郎「遺訓」序