日本綿花の中国進出

中国綿の取扱いトップに。中国における事業の多角化を推進

日本綿花は明治37(1904)年に上海支店を設立した。日露戦争の開戦間際で、中国大陸がいつ戦場になるかもしれない状況にあったが、後に社長となる喜多又蔵が「将来の日本にとって有望な市場であり、資源も豊富で多角的な経営が期待できる」と、当時の社長・田中市兵衛に進言して実現した。


上海支店では、繰り綿工場や紡績工場の経営のほか、綿糸の輸出、雑貨の取扱いを行い、同年には中国綿の集散地である漢口にも支店を開設、綿花荷造り工場を建設した。当時、綿花に意図的に水をかけて量目をごまかす華商が多かったことから、日本綿花は、漢陽では繰り綿プレス工場を新設し、買い付けた中国綿の余分な水分を除去し、日本に輸出した。日本綿花の独自の対策により、中国綿は他の追随を許さぬ特長を発揮し、業界で優位になった。


その後、中国各地の綿花集散地に荷造り工場を設立し、綿花調達網を広げた。同時に紡績、豆粕、綿実製油、麻袋・麻布工場を次々と設立し、事業の多角化も進めた。この綿花を軸にした中国とのビジネス関係は戦後にも活かされることになり、戦後の日中の民間貿易再開において日本綿花は重要な役割を果たすことになる。

  • 中国進出当時の上海支店

  • 漢口の泰安紡績

  • 漢陽・繰り綿プレス工場内の綿花