綿花調達の開始~インド・米国・中国・エジプトへ

綿花を求めて海外へ

日本綿花設立後、社長の佐野はすぐにインド、エジプト、そして中国へ出張し、綿花調達先の選定を行った。


当時、日本とインド間の航路は外国船に独占され、日本の紡績業の興隆に危機感を抱いたインドの紡績業者による海運業者と結託した運賃の値上げ、海運スケジュールの意図的遅延などの妨害が相次いだ。自国船による航路開通の必要に迫られた日本は、インドのタタ商会、日本郵船、紡績業界が一丸となり、明治26(1893)年に定期航路開通を実現した。この交渉の際、社長の佐野も指導的な役割を果している。そして日本綿花は、インド綿の取扱いでは業界トップを誇るようになった。


また世界有数の産地である米国からの綿花輸入についても、ニューヨーク在住の薬学者であった高峰譲吉の協力を仰ぎ、フィラデルフィアのマクファーデン兄弟商会をソールエージェントに選定。これが我が国での米綿直輸入の始まりといわている。米国綿花の使用量は次第に増加し、我が国紡績業にとってはインドに次ぐ重要ソースとなっていった。また明治42(1909)年には日本綿花社員の名義で、日本人として初めてニューヨーク綿花取引所の会員権が許可された。


エジプト綿花についても明治33(1900)年には綿花の輸入の取り扱いを開始。大正12(1923)年にはエジプト・アレクサンドリアに事務所を開設し、日本産綿布の販売に注力した。日本綿花はエジプトビジネスのパイオニア的な存在であり、日本綿花のエジプト進出を機に、他の日本企業の進出が相次ぐようになった。

  • インド奥地サルゴダ工場での実綿看貫

  • 米国フォートワース出張所で検品する社員

  • 日本紡績業が使用した国別綿花(1894~1900年/単位:1,000貫)