日本綿花発起人~木原忠兵衛(広岡信五郎の趣味仲間)

NHK連続テレビ小説「あさが来た」のモデル広岡浅子の夫、信五郎は謡曲、茶の湯三昧にふけっていたといわれる。ただし、こうした趣味の世界で、大阪財界の有力商人との人脈を形成し、新たなビジネスの種を探していたのかもしれない。


そんな広岡信五郎の趣味の仲間が、八代目木原忠兵衛である。木原家は、代々両替商である銭屋を営み、大阪屈指の豪商であった。広岡家の加島屋とは両替商として同業にあたる。木原忠兵衛は、いち早く両替商から銀行業に転じ、明治13(1880)年に木原銀行を設立。また明治27(1894)年に日本中立銀行も興して頭取にも就任している。広岡浅子が実質的に創業した加島銀行は、明治21(1888)年であることから、浅子にとっても銀行業の先輩格となる。


ニチメン(日本綿花が後に改称)の史料では、木原忠兵衛が、趣味が謡曲、雅楽、俳句、茶道など幅広く、信五郎とは謡曲仲間であったことが記されている。木原忠兵衛は嘉永5(1853)年生まれと信五郎の11才年下にあたり、信五郎にとっては可愛い後輩的な存在であったのかもしれない。


信五郎は明治22(1889)年に、尼崎紡績の初代社長を務めるが、第二代社長に就任したのが木原忠兵衛である。信五郎は社長退任後も、相談役として木原忠兵衛と親しい関係であったと思われる。この二人は明治25(1892)年に設立された日本綿花(後のニチメン、現・双日)の発起人にも名を連ねることとなる。

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