戦後復興への貢献

綿花・食糧の取扱第一位、貿易取扱高第一位に。

第二次世界大戦が終結すると、貿易は全てGHQの管理下におかれ、民間企業による貿易は禁止となった。戦後の食糧難に対して、これまでビルマ米の輸入で実績を持つ日綿は、GHQの放出する食糧の輸送業務に従事。昭和21(1946)年には日米政府間協議により米綿輸入の再開が行われ、日綿は輸入と配送業務を担当した。


民間貿易の全面的再開に先立ち、昭和23(1948)年には戦後初めての通商使節団(団長GHQ外国貿易課W.R.イートン)がインドに派遣され、日綿取締役の福井慶三(11代社長)が参加。福井はインド・パキスタンからの綿花輸入の買い付け商談を纏め、両国間の貿易再開に向けて尽力した。


また当時民間人の海外渡航は厳しく制限されていたが、日綿の岡島専務(10代社長)は、GHQから商社人として初めて渡米許可を得て、戦前の取引先を回り、取引再開を呼び掛けている。昭和25(1950)年には日本政府が米国内で対日援助食糧を受領する際の政府代行商社に選定され、ポートランドの事務所を構えた。これが戦後初の総合商社による米国進出である。


また戦後初のビルマ米の輸入も戦前から実績のある日本綿花が担った。昭和25(1950)年時点で綿花と食糧に関しては同業者中1位となった。戦前から取引のあったエジプト綿の輸入再開も日綿によって行われ、当時外貨事情が厳しかったため、アルミ地金、アルミ板、絹織物、スフ綿とのバーター取引を纏めてあげた。このバーター取引は、取扱い商品の多角化をもたらし、日綿の総合商社化の糸口となった。


昭和25(1950)年に朝鮮戦争が勃発すると朝鮮特需により輸出も急速に回復し、GHQも「日本の工業生産は戦前の水準に達した」と発表。昭和28(1953)年には日綿は輸出入取扱集中度5%を達成し、貿易商社中第一位に躍進した。

  • 綿花の荷下ろし作業

  • ボンベイ港での日本向け綿花の積み出し(1948年)

  • インド綿の買い付け(1950年ごろ)