日本綿花設立の旨趣

日本人の手による綿花の調達を

明治15(1882)年に大阪紡績が設立されたのを機に、原料である綿花を海外に頼らざるを得ず、綿花輸入が急増していた。

 

しかし、綿花の輸入は一部の企業によって寡占され、また外国商館からも暴利をむさぼられていたこともあり、大阪の紡績業者の有志たちが、綿花直輸入会社の設立に向けて動きだし、摂津紡績、平野紡績、天満紡績、尼崎紡績4社の首脳陣を中心とした25人が、「日本綿花株式会社」を設立する。

 

設立の趣旨については下記のように、「日本人の手による綿花の調達が我が国の国益を左右するものである」と力強く記載されている。

 

「綿製品の需要は、時代の進展に伴って、ますます増大している。近年、わが国の綿糸紡績業は興隆期を迎え、すでに製造業の上位に達し、海外輸入錦糸を排除するまでになってきた。明治24(1891)年の輸入量は、輸入最多の明治21(1888)年にくらべて6割4分も減少した。国家のため誠に喜ばしいかぎりである。しかし、その原料である綿花は海外から求めなければならず年々輸入量が増加し、明治24(1891)年の輸入量は、明治21(1888)年にくらべて3倍に達している。

 

紡績業界では、設備の拡張が進められており、錘数は10万余にのぼり、これに要する綿花は年間2,150万斤(約1万3,000トン)と見込まれ、綿花輸入量は2~3年度には年間8,200万斤(約4万9,000トン)の巨額に達することは確実である。国内の産出は需要を満たすに足らず、さらに供給の道をさぐり、安価でこれを購入すれば、全国の経済を利すること大である。ことに、紡績その他綿業に従事するものにとっては、死命を制する重大事である。

 

もし、綿花供給の道が渋滞し、その価格が非常に高騰すれば、当事者が困惑するだけでなく、その影響は社会全体に及ぶであろう。今日、綿花を輸入しているのは、中国、インド、米国の3国からである。中国綿の輸入は、長年の経験によりその規模はほぼ決まっており、将来増加する見込みはない。これに反して、インド・米綿は、近年初めて回送されたが、その時期に、わが国紡績業界が細糸紡出の傾向を強めており、これに最適の綿花として、インド・米綿が注目を集めるところとなった。

 

ここに、日本人の手によるインド綿と米綿の売買、貿易業を経営しようという動きが起きてきたが、まだ需要家の要望を満たすに至っていない。このまま傍観すれば、必ず外国商人が機に乗じて日本市場を支配する情勢である。これは、手数料とか諸経費の得失の問題ではなく、わが国の基幹産業として発展途上にある綿糸紡績業の命運を左右する重要問題であり、われわれが会社を設立する使命でもある。」

 

初代社長には、当時、農商務省書記官であり、明治22(1889)年にインド綿調査団として派遣された佐野常樹が任命された。

  • 佐野常樹(設立発起人代表、初代社長)

  • 設立当時の株券

  • 日本綿花の設立総会が行われた堺卯樓