第一原子力産業グループ(FAPIG)の設立

日本で最初の商用原子力発電所を建設

昭和30(1955)年にジュネーブで開かれた原子力の平和利用に関する国際会議で、従来は軍事目的のために秘密にされていた原子力産業に関する技術資料が公開され、日商においてもその体制を整えることになった。

 

昭和30(1955)年の鈴和会(旧鈴木・主力企業の親睦会)において高畑は神戸製鋼所の浅田長平社長に原子力に取り組むための旧鈴木を中心としたグループを結成できないかと意見を求め、非財閥系の重電機メーカーである富士電機の協力が必要ということになった。高畑の神戸高商時代の同期には永井幸太郎、出光佐三(出光興産店主)、和田恒輔(富士電機・富士通社長)がいて、「1年間夕食をスキ焼きとする(=スキ焼を食べ続ける)」と約束するほどの仲であったため、高畑は和田恒輔と相談し話が進んだ。

 

富士電機は古河系ということもあり、同グループの富士通信機、古河電工、古河鉱業、旭電化、日本軽金属、横浜ゴム、神戸工業が参加。そして鈴木商店時代から神戸で共に活躍した松方幸次郎が生み出した川崎系である川崎重工業、川崎製鉄、川崎航空機も本グループに合流する。更に旧鈴木、川崎、古河系の主力銀行は第一銀行であったため、同銀行も加わって合計16社で、昭和31(1956)年に第一原子力産業グループ(FAPIG/First Atomic Power Industry Group)を設立した。

 

FAPIGはイギリスのゼネラル・エレクトリック社との技術提携を進めたが、昭和34(1959)年、日本で初めて建設する原子力発電所にはFAPIGが推す方式の採用が決定。茨城県に建設された「東海原子力発電所」は昭和40(1965)年に臨界に達し、運転を開始した。

 

[外部サイト]

  • FAPIG結成式(1956年8月)

  • 茨城県東海原子力発電所

  • ゼネラル・エレクトリック社が建設中の原子炉(英国、1958年)