神戸発、
双日へと続く
総合商社誕生物語

神戸開港から150年。
双日の源流となる鈴木商店、岩井商店、日本綿花は、神戸港を舞台に飛躍のきっかけを掴み、総合商社への道を開きました。

そして今から約100年前の大正6(1917)年、双日の源流の一つ・鈴木商店は、ついに日本一の総合商社にまで登りつめます。日本綿花も神戸港に大量の綿花を荷揚げし、綿糸・綿布を世界中に輸出。岩井商店も神戸港を玄関に鉄鋼・化学などあらゆる商品を取り扱いました。この頃日本は貿易黒字国に転換し、この3社は製造事業にも進出、今に続く日本の貿易立国としての礎づくりに貢献し、そのDNAは現在の双日にも受け継がれています。

双日の源流3社の創業時の名場面とエピソードを、『栄光なき天才たち』の作画を担当した漫画家・森田信吾氏のオリジナルイラストを交えながらご紹介します。

鈴木商店

『鈴木商店ものがたり』書き下ろしイラスト

大正期に日本一の年商を誇った“幻の総合商社”

神戸の洋糖引取商からはじまった鈴木商店。女主人・鈴木よねが番頭・金子直吉の商才に賭けて全権を委ね、金子は台湾での樟脳油取引で莫大な利益を挙げたことをきっかけに、次々と製造事業に進出しました。鈴木商店はのべ80もの事業を展開し、現在の神戸製鋼所、帝人、IHI、昭和シェル石油、サッポロビール、日本製粉、J-オイルミルズなどに続く多くの事業を起業しました。

ロンドンでは、25歳でロンドンに赴任し、すぐに支店長を任された高畑誠一が大活躍し、そして第一次世界大戦中、鈴木商店は財閥を抜き、日本一の総合商社に登りつめます。

その後、米騒動時に本店の焼き打ち事件が起き、昭和2(1927)年の昭和恐慌時に破たんしますが、高畑誠一ら、わずか39名が鈴木の再興をかけ日商を設立。日商岩井、そして現在の双日へと続いていきます。

神戸の一商店から日本最大の総合商社にまで登りつめたその伝説的な活躍は、今も多くの人々を惹きつけています。

鈴木商店本店(旧みかどホテル)

「鈴木商店」について詳しく知る

  • Episode 1 財界のナポレオン 金子直吉
  • Episode 2 天下三分の宣誓書、日本一の総合商社に
  • Episode 3 高畑誠一、そして世界遺産・国立西洋美術館
  • Episode 4 神戸開港150年と鈴木商店モニュメント

岩井商店

『岩井商店ものがたり』書き下ろしイラスト

輸入品の国産化を広め、禅の精神を取り入れた岩井商店

岩井商店もまた、神戸港での貿易を機に発展し、総合商社の道を歩んだ企業です。
江戸時代末期に唐物商からはじまった大阪の岩井文助商店から岩井勝次郎が独立する形で明治29(1896)年に創業したのが、岩井商店です。

岩井商店は個人商店として初めて神戸居留地の外国商館を通さずに海外の企業と取引を開始し、また洋銀前払いではなくトラスト・レシート(信用状)にて輸入貨物を引き取るなど、現在の商社が用いるスキームをいち早く構築しました。

貿易だけではなく製造業にも進出し、兵庫の網干(あぼし・姫路市)、尼崎でセルロイドを製造し、神戸港から大量に輸出。八幡製鉄所の代理店となり、また現在の日新製鋼を設立し、日本の重化学工業化を推進。さらに第一次世界大戦が勃発すると、いつまでも外国に原料を依存してはならぬと輸入品の国産化を加速させ、現在のトクヤマ、関西ペイントなどを設立。その他にもトーア紡コーポレーション、日本橋梁なども設立し、諸産業の国産化に大きな役割を果たしました。

岩井勝次郎は第一次世界大戦から世界恐慌へと激しく変わる経済情勢の中で、絶えず堅実な経営を志し、実践しました。
その根本となったのが禅で、晩年には不況などによる人心の荒廃を憂いて京都の長岡京に長岡禅塾を設立します。

岩井商店は、日商と合併し、日商岩井、そして現在の双日へと続いています。

「岩井商店」について詳しく知る

  • Episode 1 神戸港と岩井商店
  • Episode 2 神戸御影の岩井本邸と阪神間モダニズム
  • Episode 3 大戦不況を予測し、訓示を発する
  • Episode 4 長岡禅塾と最勝会

日本綿花

『日本綿花ものがたり』書き下ろしイラスト

日本最大の産業となった紡績業への貢献

明治維新後の新産業として関西一円に広がったのが、綿花を原料に綿糸、そして綿布に加工する紡績業です。
阪神地域は当時世界最大の紡績都市になぞらえて「東洋のマンチェスター」とよばれるほど、紡績工場の煙突が建ち並びました。

しかし、原料となる綿花の輸入は外国商館に牛耳られており、日本人による原料調達の必要性が叫ばれます。
そこで大阪の財界人たちの出資のもとで設立されたのが、日本綿花でした。
日本綿花の設立発起人の中には、広岡浅子の夫である広岡信五郎や、五代友厚と親交のあった田中市兵衛ら、大阪財界の顔役が並びました。

設立後の日本綿花はインド、エジプト、中国、アメリカから綿花を大量に調達し、神戸港に荷揚げします。そして神戸港から綿製品を大量に輸出しました。明治末期から大正初期にかけては神戸港の輸入の半分が綿花に、そして輸出の3割が綿製品となるに至りました。この活況の中、日本綿花はトップクラスの扱いを担っていました。

第一次世界大戦が勃発すると、それまで世界の工場といわれた英国からの輸出が減少し、戦火に巻き込まれなかった日本の紡績業も大躍進を遂げ、日本綿花は、ビルマ(現ミャンマー)や東アフリカなどからの調達網と世界に向けた販売網を拡大し、日本の海外進出の先駆けとして活躍、その後日本は世界一の紡績大国に登りつめることになります。

明治42(1909)年11月に完成した本社社屋

「日本綿花」について詳しく知る

  • Episode 1 日本綿花 創業メンバーの横顔
  • Episode 2 神戸港と日本綿花
  • Episode 3 ビルマの駐在員・べっぴんな子供服を着た女の子は……
  • Episode 4 若き日本財界の代表喜多又蔵

双日・歴史展示について

双日は、2017年に神戸開港150年を迎え、また100年前の先人達の偉業を振り返るため、双日本社ビル内に創業者の展示を設置しました。
創業者の像やレリーフ、天下三分の宣誓書などの貴重な資料を展示しております。
一般非公開となっておりますが、下記サイトより展示物をご覧いただけます。

双日本社ビルで双日の創業に関する歴史展示を開始

そして双日へ

鈴木商店は昭和2(1927)年に破綻。高畑誠一ら鈴木商店の社員の一部は日商を設立。鈴木時代の取引先を核として、戦後、船舶輸出第一位、ボーイングの代理店として大型航空機の導入、第一原子力グループ(FAPIG)を組成し、日本初の原子力発電所の建設、住宅、木材、化学品、エネルギー分野において日本の高度経済成長を牽引。

岩井商店は、最勝会とよばれる製造事業群を核としてビジネスを拡大。戦後はブラジル鉄鉱石の長期大型輸入プロジェクトなどを手掛ける。

日商と岩井は合併し、日商岩井として、インドネシアLNGプロジェクト、ナイキとの代理店契約締結、ベトナムへの日本企業初の進出など、日本のエネルギー供給と海外進出に貢献。

日本綿花は綿花調達と綿製品の輸出により、世界中にネットワークを構築。綿花とのバーター取引などにより商品アイテムを広げ、総合商社化していく。特に綿花主要産地である中国とは関係が深く、農業開発など、日本初の大型プラントを受注。また綿花の主要産地である米国での関係を活かし、戦後、現在のヤマザキビスケットを設立、リースのノウハウを取り入れ現・オリックスを設立。繊維関係ではブランドビジネスなども展開。そして2004年、ニチメン(日本綿花)、日商岩井は合併し、双日に至っている。