【日本綿花】ビルマ(現・ミャンマー)のパイオニア

我が国初のビルマ綿の輸入、精米所の買収

大正6(1917)年、第一次世界大戦の影響で、ニューヨーク綿花市場では、南北戦争以来の高値を記録した。そこで日本綿花は、新たな調達先としてビルマ(現・ミャンマー)からの綿花の輸入を開始。これが我が国初のビルマ綿輸入となった。また同年ラングーンに出張所を開設、さらに大正9(1920)年にはミンジャンに繰り綿工場を建設した。


ちょうどラングーンに出張所を設けた頃から、日本では米価が高騰し始め、大正7(1918)年には米騒動による鈴木商店本店焼き打ち事件が発生した。当時、パリ講和会議全権団に随行し、ヨーロッパ各地で吹き荒れる社会主義革命を目撃した日本綿花の喜多社長は、国内情勢を安定させるためには安い米を輸入して安定供給する必要があると考え、パリからラングーン店に精米所の買収を指示、英国人が所有し1日600トンの精米能力を有するビルマ有数のドウボン精米所を大正9(1920)年に買収した。これが日本企業のビルマ投資の先駆けといわれており、ビルマは戦後も含め日本綿花の強みのある地域となった。

  • ビルマ繰り綿工場での選綿作業

  • ビルマ米の積み出し

  • ドウボン精米工場