関西ペイントの設立

大戦で塗料輸入が中断、塗料の国産化を決断

岩井勝次郎は常日頃から専門家を招いて積極的に情報収集を行い、特に東京帝国大学工学部応用化学科の田中芳雄助教授から世界の化学工業の新しい動向などを聞いていた。一方、田中の大学の同窓で優秀な技術者であった玉水弘は、小規模ながらペイントの生産と販売を行っていたが経営に行き詰っていた。そこで田中は、技術者を尊重することの重要性を知り、すぐれた企業家である岩井勝次郎に玉水を紹介した。

 

岩井商店は従来より英ハバック社から塗料を輸入していたが、大戦により輸入が中断した。拡大する塗料需要に対応するためは、独自の技術開発力をもつ塗料製造会社の育成が国民経済的な要請であると感じていた岩井勝次郎は、玉水の事業をバックアップすることを決め大正7(1918)年、関西ペイントを設立するに至った。

 

関西ペイントは、尼崎市神崎の大阪繊維工業(現・ダイセル)の隣接地に工場を建設することになった。非油性塗料で速乾性のあるラッカーの開発に注力した同社は、大正15(1926)年、業界で初めて国産化を実現した。

 

大正末から昭和初期にかけては、フォードやGMが日本でノックダウン工場を開設、また国内各メーカーも自動車生産を開始する時代を迎えていたが、速乾性のある塗料は、自動車の大量生産には不可欠なものであり、日本の自動車生産が輸入品ではなく国産の塗料によって開始されたことの意義は大きいといえる。

 

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  • 創業時の関西ペイント神崎工場